焼 月
葵さま
2018/10/13(Sat) 20:08 No.137
薄明りの中、陽子はからっぽの街をひたひたと歩いていた。
建物の輪郭がおぼろげに見て取れる程度には明るくて、けれど細部はとろりとした闇に溶けて曖昧、そんな夜明け前の曖昧な時間帯だ。誰もいない。生き物の気配は皆無だ。空はどんよりした灰色に重苦しく霞んでいて、月も星も雲も、およそ空に属するものはなにも浮かんでいない。
曖昧な時間帯というのは、しばしば魔を引き寄せるという。夜明けしかり、夕暮れしかり――狭間、境界、あわい、――いろいろな言葉で表されるそれは、いろんな人やモノが行き交ういわば混沌の次元の歪みのようなものであり、時間、場所、そういったものが分かちがたく混ざり合って、うっかりそういうものに紛れこんでしまうと、一つの場所にいると思っていたら同時に別の場所に、さらに異なる時間の軸に存在することもありうる。
ずいぶん歩いた気がして、額にうっすらと浮かんだ汗を甲でぬぐって陽子は立ち止まった。軽く息がはずんでいた。辺りはいっこうに明るむ気配がなく、時が止まったようだった。暑くはないものの、風がまるでないために分厚い毛布を口元にあてられたような閉塞感があり、少しばかり息苦しい。どの建物の屋根も裾が勢いよく反りかえっていて、軒先にはぶらぶらと無数の風鐸が吊り下がっている。こういう建築様式は蓬山でよく見かけたような気がするが、ここが蓬山でないことは確信がもてた。起伏の多いあの山地には宮が幾つも点在していたが、こんな平坦な道が長くは続くことは無かったし、またこんな風に密集して建てこんでいることもなかった。
――そもそも、なんでこんなところにいるのだろう。
おやすみなさい、と鈴に挨拶してから布団に潜り込んだ……つもりだった。
女御の手で整えられた清潔な布団をめくってみると、寝床にはなぜか龍の這い上る意匠の小さな門がひとつ生えていた。大きさは猫の仔の背丈ほど。好奇心からうっかり指先を突っ込んでみたところ、耳元で渺……と聞き慣れぬ風鐸の音が鳴った。
渺渺渺……渺渺渺……
気づけば、いつのまにか薄明の街にただ一人佇んでいた。どこを見渡しても見覚えはなく、すでに寝榻も敷布も消え失せている。
街の中心を走る大径は塵一つなく、現実離れした滑らかさは凍り付いた湖を思わせた。径の左右にひしめく建物はそれぞれ高さが違っていて、色もそれぞれに異なった。濃黄の建物に窓がくりぬかれているさまは、薄暗い大気の中でまるで死者の顔のように見えたし、冴えた碧の建物は吹けば飛ぶ天幕のようなしおらしさだ。やれやれ、と陽子は背を覆う豊かな紅髪をうっとおしそうに振り払うと、ほっと吐息をついた。
またかと思った。眠れない夜が続いていたところ、ようやく眠気が訪れてくれたから、少しばかり仮眠をとろうと思った矢先のこれだ。あんまりだ。自分はよくよく異世界へ飛ばされる運命らしい――そもそも常世に来たのだって金髪の能面男子に問答無用で月影の門に放り込まれたのが発端だったわけだし。
今回は放り込まれたわけではなく、自分から来てしまったのだけれど――よし、歩こう。とりあえず陽子は黙々と進むことにした。寝榻に入るまで微かに萌していたせっかくの眠気はすでにどこかへ霧散してしまった。
立ち止まって息を整えてから、またしばらく歩いているうちに、右側に立つ橙色の二階建ての建物の入口あたりに大きな矢印と文字がかきつけてある看板らしきものを見つけた。暗くてよく見えなかったので、近くに寄って覗き込む。こんな看板だった。
【売有今焼月】
「……焼きたてのお月様あります?」
声に出して読みあげてから首を傾げる。月を売っているらしいが……そうか、月か。まあいい。それにしても月って焼いてもいいものだろうか。
目的も何もないものだから、矢印の示す方向へ行ってみるかという気になって、大径から狭い串風路へと入り込んだ。相変わらずこそりとも風が吹こうとしないが、やがて前方に微かながらも人の気配を感じて陽子は全身を緊張させた。今までに感じたことのない気配だった。敵意はないが、善意もない。細い隘路は水の枯れたどぶを横切り、小さな橋がかかっていた。人の気配は橋を渡った向こう、蒼くのっぺりした壁にぽかりと開いた、珍しいアーチ状の小窓の奥にあった。
「あの、すみません」
窓の奥は濃い闇がわだかまっていて、中は見通せなかった。声をかけたとたん、ゆるりと闇が動いて、ああ、と嗄れた声がした。声――だと思う。けれど、古びた胡弓の弦の音だといわれればそうかな、という気もする掠れ具合だ。
「焼きたての月があるって……看板を見て」
「あるとも。満月、三日月、下弦の月。どれにするかい。あいにく上弦の月は在庫がない」
きゅうきゅう、と弦のような声が囀った。気配はすぐ近く感じられるるのに、声はどこか遥か遠くから伝わってくるようにぼんやりとしていた。
「じゃあ満月」
適当に選んでみる。
「あんたの髪を寄こしな」
代金は髪の毛か。ハゲてなくてよかったと思いながら背に負った水禺刀を抜き、一房だけ切り取って窓枠に置いた。玻璃はもちろん鎧戸もない、窓というよりただの穴だ。
ころり、と唐突に窓の奥からバスケットボールほどの球体が結構な勢いで転がってきた。慌てて両腕で受け止める。白金に輝くその表面にはちゃんとクレーターやウサギ模様のシミがついていて、サイズを別にすれば本物の月だ。焼きたてというだけあって月はほかほかと湯気を出し、湯たんぽを抱えているような温もりが腹に伝わってくる。
胡弓がきゅう、と鳴った。
「薄く切って、そいつに食わせてやると良い」
「そいつ?」
「相棒だ。相棒がいるんだろ?」
「……ああ。いるね、一匹ばかり。これを食えばそいつは目覚める?」
「そのために来たのだろう?」
「たぶんそうなんだと思う」
きゅうきゅう。闇が凝った窓奥から不思議な気配が遠ざかっていくのを感じて、陽子は慌てて声をあげた。
「待ってくれ、どうやったらこれを持ち帰れる?」
「右向かい、紅い家の軒先にならんだ七番目の風鐸。表に『帰』と刻んである龍の形の風鐸だ。鳴り始めたら、それを掴め」
「だって風もないのに……風鐸が、」
鳴るはずもない、と続けようとして口を噤んだ。気配が完全に消えたと同時に、それまでの無風がまるで嘘のように、どっとばかりにきつい突風が吹きつけてきた。とたんに、じゃらん、ちゃらん、とやかましく風鐸が一斉に鳴り始める。
渺渺渺渺渺渺渺渺渺…!!
家々の軒先に無数にぶらさがったそれが合わさるとまるで割れ鐘だ。陽子は風に満月が飛ばされぬよう背を丸めながら、片手で必死に耳を覆った。
――右向かい、……七番目!
狂ったように鳴り響く風鐸の林を駆け抜け、掻き分け、暗い中で懸命に目を見開いて龍の字を探した。あった、これだ。吹き始めた時と同じく唐突に風が弱まり始め、陽子は焦って飛びついた。龍の風鐸の傘の部分に掌が触れた瞬間、ぐるりと視界が暗転した。