御題「再生」より ― 緑 ―
ネムさま
2010/09/18(Sat) 23:45 No.54
熱で乾いた布を水に浸し、また額に当てる。わずかに寄せられた眉根はすぐに戻り、少女は再び眠りに落ちる。その様子を見下ろし、尚隆は
― 子供の看病は久し振りだ ―
と呟く。そしてふと思い返す。
― 子供 …? ―
数日前、雁の王師は隣国・慶の偽王軍と激戦の末、捕らわれた景麒を取り戻した。延麒=六太と楽俊の説得の甲斐もあり、慶国各地で偽王軍から離脱する動きが出始めつつある。 何度も密使が走り、打ち合わせが持たれ、首都堯天奪還の計画が進む中、景王陽子が熱を出した。
過労からくる軽いものであり、この時期だけに外部へ漏らさぬよう数人の女官と楽俊だけを付け、玄英宮の奥の一室で養生してもらうことになった。そしてこの日、また夜分まで采配を振るっていた尚隆を、相方が呼び止めた。
「陽子がどうなってるか、景麒が心配してんだよ」
角が封じられた余波で本調子ではない景麒も、主同様部屋に留められている。それに付き添う六太に訴えられ、尚隆が陽子の部屋を覗くと、こちらの付き添いである楽俊が疲れて舟を漕いでいる。楽俊を景麒と六太の元へ追いやり、交代の女官が来るまで延王尚隆が景王の額の布を替える役を担うことになった。
夜廻りの音も聞こえぬ広大な王宮の夜半、眠り込む少女は年相応というより更に幼く見える。子供のような寝顔と沈黙が尚隆を記憶の底へと引き込んでいく。
季節は夏か、蜩の声。偶々抜けようとした奥の間の庭から、開け放たれた座敷の内が見えた。子供が一人、敷かれた夜具に身を横たえている。
子供が熱を出したと親父殿が騒いでいたが、自分には関係ないとすぐに忘れた。しかし何があったか、周囲に下女一人付いていないとなると放っておくのも気が引ける。子供が眠りこけているのを幸いに座敷に上がり、額からずり落ちた布を水に浸し乗せてやったりする。
庭の緑の濃い蔭。一瞬見とれていた彼の脇で気配がした。見下ろせば、うっすら開いた瞼の奥が彼を捕らえる。
― … 父上? ―
再び瞼が閉じられた後も動けない。
― 俺は、おまえの ―
思わず漏らしかけた言葉を止めた。そして微笑った。呼び方など関係ない。父であれ、兄であれ、この子供は自分が護るものの一つなのだから、と。
女達の声が聞こえたのを機に、するりと庭へ下りた。緑陰を抜けながら、何時になく気持ちが浮き立つのを覚えた。
…火影が揺れる。尚隆の目は見るともなしにそれを追う。子供は―いや、景王はまだ眠っている。
あの頃共に生きた人々の顔は既に記憶に無い。瀬戸内の風景も曖昧だ。それなのに、今夜のように不意に甦ることがある。光や声、あの頃の感情や、そしてそれら全てを失ってしまったということも。
苦い笑いがこみ上げてくる。護るべき者達は次々と時の彼方に没していくというのに、自分は今だ血を流して玉座に在る。
自分が何を目指しているのか探すように、尚隆は虚空を見つめ続ける。
気配がした。声とも言えぬ声が漏れ、瞼がゆっくり開かれる。
緑
鮮やかな翠緑が尚隆を捕らえる。
「延王?」
二、三度瞬きすると、突如陽子は跳ね上がり、掛布を両腕に抱き込んだ。度を失っている陽子を尚隆は呆けたように見ていたが、やがて微かに、そして大きく笑んだ。
「楽俊を呼んでこよう」
そう言うと扉へ体を向けたが、不意に寝台の傍へ戻り、景王の頭を軽くぽんぽんと叩いた。尚隆が部屋を出て行った後も、陽子はただ呆気に取られていた。
「尚隆、陽子は?」
暗い回廊の奥から明るい金の髪と、その後ろに揺れるしっぽが目に飛び込んできた。
「今、目が覚めた。熱も下がったようだし、もう大丈夫だろう」
楽俊が大きく息を吐いた。結局眠れなかったのだろう、目を擦っている。六太は景麒に知らせようと踵を返す。
「おい」
呼び止められて六太が振り向くと、いきなり大きな手が金の髪をがしがし掻き混ぜた。
「な、何すんだよ!」
「なに、感謝の印だ」
それから“俺は休むぞ”と言い捨て、さっさと歩き出す。
「信じらんねぇ、あのおっさん!」
相方の絶叫と硬直しているだろう楽俊の気配を背に、尚隆は思い出していた。
全てを失ったと思ったあの時、一人の少年が現れ言った。
― 国がほしいか ―
そして遥か彼方を指差した。
― 緑の山野がほしい ―
それからはその示す先を目指して走ってきた。戦も飢えもない、豊かで誰もが安らげる国、どこまでも広がる緑の大地を。
そして今また、一人の少女が現れた。
― 王になります ―
今にも泣きそうな顔のまま、しかし望郷も懼れも呑み込んだ勁い光を湛えた瞳を開いて言い切った。その瞳は萌え出づる緑の色。
― この少女の作る国が見たい ―
そう思った。
どれ程時が経とうと褪せぬ喪失感。それでも焦土から芽吹く稚い緑の強さに突き動かされる。繰り返し、何度でも。
「大概、俺も懲りぬ奴だな」
呟きながら、尚隆は何時になく気持ちが浮き立つのを覚えていた。
― 了 ―