ある乙女の秘かな夢
2011/09/24(Sat) 12:37 No.90
今日は紅の君に会えますように。
そう願って家を出た。勿論、そう頻繁に会えるわけではない。時折この街界隈に現れるそのひとは、簡素ながら質のよい袍を纏い、立派な太刀を佩いている。緋色の髪を高い位置でひとつに括り、細身の身体で溌剌と闊歩するそのひとに目を奪われたのは、いつのことだっただろう。秘かに、紅の君、と呼んで恋い慕うようなったのは。
雑踏の中をすいすいと歩き、ぶつかって因縁をつける者をもさらりと躱す。翻る鮮やかな紅の髪が印象的だった。太刀を抜いたところなど見たこともない。目立つ容姿をしていながら、いつの間にか姿を消してしまうのも魅力のひとつ。だからこそ、運良く見かけた日は幸せな気持ちになるのだ。
そう、声をかけるなんてとんでもない。凛々しいお姿を見られるだけで充分。ずっとそう思っていた。今日この日までは。
おつかいのために広途に出て、私はいつものように辺りを見回す。会えない日の方が多いのだが、習慣というものは身に染みついてしまうものだ。そして、私は捜し人を見つけた。鮮やかな紅の髪を揺らして歩くひとを。しかし、だ。
「──え!」
見るなり硬直して立ち竦む。私の目には信じられないものが映った。憧れの紅の君が、背の高い知らない男と歩いている。
嘘! 誰! ど、どうして男と楽しそうに手なんか繋いでいるの? ま、まさか……。
動揺しまくる私になど勿論構うことなく、紅の君は男ともに細い串風路を曲がって行ってしまった。
我知らず追いかけていた。止めようにも足が勝手に動いていた。そして、ひと気のない串風路に入ると、広途では喧騒に消されていた二人の会話が、はっきりと聞こえてくる。思わず聞き耳を立てた。
「こういう目立たない串風路にこそ、面白い店がある」
「──気に入らない」
「何がだ」
「──あなたの言う面白い店って、いつも……」
「お前を楽しませているだろう?」
楽しげな男に対し、紅の君は拗ねたように横を向く。低めの清々しい声も素敵、とこんな時なのに聞き惚れてしまう。にやにやと笑う男の顔を睨めつけ、紅の君は顔を蹙めて言い募った。
「気に入らない」
「だから何がだ」
「だって、慶は私の国なのに」
紅の君はむっとして唇を尖らせた。怒っているはずのその顔は、ほんのりと朱に染まり、なんだか可愛らしく見える。そのときだ、くつくつと笑う男が、身を屈めて紅の君の唇に口づけたのだ!
や、やっぱり龍陽……。
そう思った時、私の意識は途切れた。
「──大丈夫?」
目を開けると澄んだ翠の瞳が見つめていた。かけられた声に茫と頷く。そして我に返った。私は紅の君の膝の上に頭を乗せていたのだ。なんてことを!
「──ご、ごめんなさい!」
「無理しないで。貧血を起こしたみたいだから」
慌てて飛び起きようとしたけれど、紅の君に優しく押し留められた。心配そうに覗きこんでくる顔は、近くで見るとこちらが恥ずかしくなるくらい美しい。翠玉の如く輝く瞳も、滑らかな小麦色の肌も、紅い花びらのような唇も。思わず見蕩れて絶句した。
近くで押し殺した笑い声がする。あの男が少し離れたところで様子を見守っていた。舌打ちをしたい気分でそちらに顔を向け、少し驚いた。頭に血が上っていたせいか、ちっとも目に入っていなかったけれど、この男もまた整った顔をした偉丈夫だ。そっと二人を見比べる。残念ながら、お似合いだ。そう思った私は小さく溜息をついた。
「──ごめんなさい」
「どうやら気づいたようだな。別に構わぬが」
男が楽しげに笑う。私の顔を覗きこんでいた紅の君は、男を見上げて不思議そうに首を傾げた。男はただ肩を揺らして笑うばかりだ。翠の宝玉のような瞳が、今度は私を真っ直ぐに見つめる。私は再び声を失った。
「知らぬが花、という言葉もあるぞ」
男は太い声で笑う。私は紅の君の柔らかな膝から名残惜しげに起き上がり、深く頭を下げた。
「ありがとうございました。ほんとうに、いろいろ……ごめんなさい。もう大丈夫ですから」
「いや、こちらこそ、大してお役に立てなくて。……ほんとうに大丈夫?」
あなたの傍にいるだけで、動機息切れ目眩がします、とはとてもじゃないが言えない。
顔を熱くして黙りこくる私の心中を察したのは、愛しい紅の君ではなかった。あの男が低く笑って紅の君を促す。恋敵ながらいい仕事をする、と秘かに思った。
「あまり引き留めては迷惑だぞ」
「でも……」
「ほんとうに大丈夫です。ありがとうございました」
そう告げて心から頭を下げると、紅の君は笑みを浮かべて私を見つめ、男とともに踵を返した。男が私に片目を瞑って見せる。余計なお世話、とばかりに顔を蹙めて舌を出した。そしてまた、紅の君の背に目を戻す。
角を曲がる紅の君が一度振り返り、鮮やかな笑顔で手を振った。私は小さく手を挙げて、その笑みを胸に焼き付けた。
女性だったけれど、恋人もいるけれど、紅の君はやっぱり素敵。私はこれからもその姿を街に捜すだろう。いつか、聞きそびれた名前を訊く機会が来ることを夢に見ながら。
2011.09.24.
ありがとうございます! 未生(管理人)
2011/09/26(Mon) 09:31 No.102
饒筆さん>
寒がりの私は既に冬布団でございます(笑)。
陽子主上以外は目に入っていないこのコを書くのは楽しゅうございました。
お褒めに与り恐悦至極でございます〜。饒筆さんのツボをヒットできてよかったです。
陽子と尚隆のツーショットはかなり目立つでしょうが、
尚隆は「もっと気を落とせ」と諭していると思いますので、
案外街に溶け込んでるのではと妄想しております〜。
瑠璃さん>
そうそう、男性陣は女と思い、女性陣は男と思い、
男女問わず夢中になっていると思います(笑)。無自覚に誑かしてますよね〜。
確かに尚隆は女子供以外に陽子主上の膝枕を許しはしないでしょうね。
「その辺に転がしておけ」とか言って叱られそう(笑)。
ネムさん>
尚隆から見ると可愛らしい陽子主上も、第三者の娘さんから見るとカッコイイのだよ、
というお話でもございました。お察しいただけて嬉しいです!
きっと尚隆もずっと龍陽と思われても面白いと思ったでしょうね。
娘も陽子主上もどちらも可愛く見えて笑っているのだと思います(笑)。
皆さま、ご感想をありがとうございました!