星海飛天
ネムさま
2011/09/19(Mon) 00:21 No.78
ようやく見つけた延王=尚隆は、月夜の磯辺に座り込んでいた。その不機嫌そうな背中に、陽子は声を掛けあぐね、溜息を吐く。
泰麒捜索のため金波宮の一角に、雁・範の二大国の主従が泊り込むことになってから早十数日。その間二国の王は顔を会わせると、最後には必ず口論となる。それも仲が悪いと言うよりは
「絶対、延王様が遊ばれているわ」
というのが、祥瓊の言。
反論する者も無く、今日も遅くに仕事を終わらせ蘭雪堂に顔を出した陽子は、気まずそうな廉麟と李斎に頼まれ、尚隆の後を追うこととなった。(ちなみに六太は「ほっとけ」の一言だった。)
陽子の気配に気付いたらしく振り向いた尚隆は、まだ眉根を寄せていたが、鼻を鳴らして何かを陽子に投げつけた。慌てて伸ばした手に乗ったのは、ほら貝に似た、もっと軽く薄い貝殻だった。
「厨房で見つけた。こっちの海人は口と鼻をその貝の穴で覆い潜る」
それから立ち上がると、いきなり上半身の衣服を脱ぎ捨てる。
「冗祐は付いているのだろう。だったら付き合え。面白いものを見せてやる」
そう言うと、さっさと海=雲海へ向かって歩き出し、波を掻き分け進むと、急に頭から水中へ潜り込み見えなくなった。
一連の動作を呆然と見ていた陽子だが、尚隆の姿が消えた途端、慌てて後を追おうとし、はたと気付いてしばらくウロウロしていたが、やがて近くの岩陰に急いで隠れた。
やがて衣から断ち切った長い袖を胸に巻き、下袴だけの姿になって岩陰から出てきた陽子は、腰まで海の中へと進んでいった。そして、そこで立ち止まる。
月は欠け始めてはいるが、まだ明るく海面を照らしている。それでも水底は暗く、しかもこの海は空の上にあるのだ。
陽子は一瞬躊躇した。しかし尚隆を放っておくことも出来ず、貝殻を顔に当てると、思い切って空の海へ潜り込んだ。
― 軽い ―
始めの抵抗が過ぎると、不思議と水の圧力は感じられなくなった。時にひやりと冷たいものが掠っていくが、肌が感じるのはさわさわとした心地良さだ。
目を開くと、海の中にも月光が照明のように一筋射し、その周辺も光の粒子がいくつも揺らめいている。光の筋を追うように、陽子は下へ下へと潜っていく。
やがて月の照明が尽きる辺り、闇の中に再び光の粒が見えてきた。しかしそれは、水の中でも揺らめかない。陽子は潜るのを止め、ゆっくり横へと移動していく。すると、周囲の濃い陰が途切れ、突如無数の光が目に飛び込んできた。
黒く鋭い陰を裂くように、どこまでも続く光の波。よく見れば、眼下の光の中にも黒い染みのようなものが混じり、遠くなるにつれ疎らになっていく。それでも陽子の目には熱いものが溢れてくる。
― これが、私の国だ ―
凌雲山の麓から広がる堯天の街の灯を、空の海から陽子は見続けた。
海面から顔を出し、貝殻から出した口で思い切り空気を吸う。そして辺りを見回すと、仰向けに水に浮かぶ人影が見えた。その横まで泳いでいくと、陽子も水の上で体を伸ばした。月が少し傾いたのか、上の空は星の瞬きがよく見えた。
「見ました」
陽子の言葉に頷く気配がした。そしてすぐに揶揄するような声が返る。
「関弓は、もっと多いぞ」
一拍おいて、陽子は強く言う。
「これから、です」
「そうだな。何しろ俺が倒れた後は、慶に雁を支えてもらわねばならないからな」
さすがに陽子が言い返せないうちに、隣の笑い声が止み、それからぽつりと声がした。
「こちらに来て途方にくれたのは、星を見た時だったな」
陽子は横を見た。仰向けになった横顔は影になり輪郭しか分からない。
「向こうでは、瀬戸の海ではいくら迷っても、星を見れば方角が分かる。帰ることが出来る。でもこちらの、常世の星は向こうと位置が違って、分からなかった」
陽子も思い出した。
こちらに来て間もない頃、水禺刀の見せた故郷の光景が哀しくて夜空を見上げた。そして自分の知る星座が無くて、一層切なくなったのだ。
「今も、迷いますか」
陽子の問いに小さな笑い声が返る。
「迷うことは、まだあるが… 下の星が気になって、そのうち忘れた」
今度は陽子が笑った。そしてまた、上を見上げた。
― 不思議だな ―
同じ胎果と言いながら、隣にいる人の思い出は夢の、更にその中の夢の話でしかなかった。今も同じ所にいながら、ずっと先にいる人だと思っていた。
体を包む柔らかな水に揺られていると、二つの故郷の空が、今の想いが、星の中で一つに溶けていくような気持ちになっていく。
「私達は… 下から見ると、空を飛んでいるように見えるのかな」
「王は仙人らしいから…そうかもしれん」
今度は二つの笑い声が、星の海に同時に響いた。
― 了 ―