淡恋夜浜
饒筆さま
2011/10/02(Sun) 09:05 No.114
夜の雲海浴は、実に気持ちが良かった。
――また来よう。地上の星を愛でるために。
爽快な気分のまま、ざぶざぶと波を蹴って浜へあがる。
こんなに素敵な楽しみを教えてくれたのだから。改めて御礼を言おうと、傍らの延王を振り返っ
て――心臓が跳ね上がった。
さやかな月光に照らされ、彼の鍛えられた肉体が淡く光っている。
首から肩へ続く逞しいライン。広い背中に、ぐっと引き締まった腰。上着を拾う腕は太く、しなやかで力強い。
――うわあ・・・見事な逆三角形だ・・・。
間の抜けた感想と共に、自分の格好を思い出した。
ハッ!! そう言えば私も、胸に袖を巻いただけだった!! 濡れた下袴も脚に貼り付いているし・・・ま、まさか、どこか緩んでないよね?!
一気に赤面し、反射的に我が身を抱く。
カラカラと笑う声が聞こえ、「ほら」上からバサリと大きな上着をかけられた。
「俺はこのままでもいいが、おまえはそういう訳にもいかんだろう。風邪をひく前に早く戻るぞ」
「・・・ありがとうございます」
確かに有難いです。でも、ええっと・・・ずぶ濡れで半裸に近い私が延王の上着を着て帰ったりしたら、余計に「ナニがあったんですかっ?!」と大騒ぎになりそうだけど。
しかし、こうなったらもう、仕方が無い。
潔く諦めて上着を羽織り、大股で歩く彼の後について行く。
両手で前を引き合わせても、延王の上着は大きくてぶかぶかだ。でも、乾いた布地から温もりが伝わる気がする。そして微かに鼻をくすぐる、彼の匂いに包まれる。
ちょっぴり、嬉しいような。気恥ずかしいような。
――本当に、大きなひとだな・・・。
どんなに迷っても、自力で国を率い未来を拓き続けてきたひとだ。何があってもびくともしない、頼もしい背中を見つめる。
近くに居ても遠いひとを、こんなに身近に感じたの
は――初めて、だよね。
当たり障りの無い距離から眺めているだけじゃ、何も思わなかった。「雁」だの「慶」だの、そんな看板を背負っている間は考えることも無い。でも、こうして、ほんの少し彼の素顔を垣間見て琴線に触れただけで、次々に欲が出てしまう。
・・・まだ帰りたくないな。もっと話がしたい。彼のことを知りたい。きっと山ほど・・・凌雲山ほど色んな話を知っているんだろうな。ああ。この胸の高鳴りは・・・もしかして・・・?
ふと、先を行く延王が振り返った。陽子がドキリとして立ち止まる。
「そうだ、陽子。前から聞きたかったんだが・・・おまえ、六太は『六太クン』と親しげに呼ぶくせに、どうして俺は延王のままなんだ?」
え? 唐突に、なぜ?
「いえ、それ
は――すごく偉大な大先輩なのに、馴れ馴れしく名前で呼ぶなんて失礼かと思いまして」
延王が眉根を寄せた。訝しげに問う。
「陽子・・・俺の事を、本当に偉大だとか大先輩だと思っているか?」
「一応、ちゃんと思っていますよ」
「『一応』なのか、『ちゃんと』なのか、ハッキリしろ」
何ですか、そのつっかかる言い種。
お互いを横目で見やり、陽子も尚隆も口を尖らせる。
「じゃあ、『小松さん』でいかがですか」
「それはなんだか余所余所しいな。そんな仲でもあるまい?」
どんな仲だよ?! 思わず、陽子は胸中で突っ込む。
「ええっと・・・小松おじさま?」
「おじさま、か。喜ぶ男もいるだろうが、俺は気に入らん」
「小松社長」
「おい。俺はいつ転職したんだ?」
「三郎お兄ちゃん」
「急にくだけたな」
「ええ〜っ! もう何が良いんですか! 難しすぎますよ!」
陽子が抗議すると、延王がずいと顔を寄せた。にやりと笑い、挑むように目を輝かせる。
「尚隆、でいいぞ」
陽子が青くなった。一歩たじろぐ。
「よ、呼び捨ては無理です! それにその笑い方、なんか作意か悪意を感じますし!!」
「・・・作意か悪意って、何だ?」
尚隆が肩を落とす。まったく色気も口説き甲斐もない娘である。
そして生真面目な陽子は結論を急ぐ。
「うう〜ん。では素直に『小松センパイ』で」
「・・・もう何でもいい」
投げ遣りに背を向けてしまった延王を追い、陽子が慌てて言い繕った。
「で、でも結局、呼称なんて何でもいいじゃないですか! 私にとって、特別なひとだってことは変わらないんですから!」
するりと言ってしまった後で。慌てて口を塞いだ。
しまった! まだ確定事項でもないのに、勢いで口が滑っちゃった!!
丸くなった目を向けられる。陽子は真っ赤になって俯く。
「い、今のは無し・・・忘れてください・・・」
目が泳ぐ。恥ずかしすぎる。もう一度雲海に飛び込んで、しばらく海底に隠れたい。
てっきり大笑いされるかと思いきや、延王は再び歩み寄った。肩に腕を廻され、顔が寄る。甘い低声が耳朶のすぐ側で囁く。
「それなら照れずに、俺の名を呼べ」
かあっと頬が、身体が熱くなる。暴走する鼓動が止まらない。
――も、もう! このひとは・・・!!!
何なんですかっ、その自信満々な態度っ! まだ惚れた訳じゃないですからね! ちょっと気になっちゃうな〜なんて程度なんだから、つけ上がらないでください!!
肩の腕を払う。
「だ、誰も照れてなんかいません! やっぱり、延王は『延王』で充分です!」
フン! 陽子はヘソを曲げてそっぽを向く。
図星を指されてイタイ、なんてことは絶対に無い!
だいたい、「尚隆」なんて呼べるワケがない・・・そんな風に彼を呼ぶ自分を想像しただけでドキドキするのに。感情を一切含まない紋切り型か、もしくは茶化して笑える呼称でなければ、面と向かって話せない。だって、彼の名を呼べば呼ぶほど・・・恋の奈落に落ちてしまいそうで・・・。
朱に染まった耳朶を見遣り、延王は嬉しそうに喉を鳴らして笑った。
<了>