おかえり
饒筆さま
2013/10/04(Fri) 12:17 No.82
何もかもが古びた岩窟の部屋に、柿色の夕陽が満ちる。窓を開け放っているのに、髭はぴくりともそよがない。
――暑いなあ……。
楽俊は小さな肩を落として嘆息した。夏はとうに去ったはずだが、灰茶の毛並みをちりちりと焼くような、この西日の熱はまだ健在だ。すっかり根負けして、法令集から丸い目を上げる。
既に大学を去った友人が残した書き付けを栞代わりに挟み、彼から貰ったその書をそっと卓へ置いた。そして椅子を陰へ移動させようと立ち上がったとき――
長く引き伸ばされた人影が、石床に落ちた。
特に驚くこともなく窓を見遣れば(窓からの訪問者には慣れている)、眩しい夕日と似た色の髪を背負った稀客が窓枠に足をかけていた。
「陽子?!」
嬉しい吃驚の声に、影になった顔がクッと笑う。
「そうだよ、楽俊。久しぶり」
「どうしたんだ、いきなり」
陽子ぉ。忙しいのはわかるが、せめて先に知らせてくれよ――そう窘めつつも、楽俊は朗らかに笑って歩み寄る。
一方の陽子は軽い音とともに床へ跳び降り、楽俊に向かって顔をあげ――にっこり微笑もうとして失敗した。眉尻が下がり、凛とした貌がくしゃりと歪む。
「ごめん。どうしても今、会いたくなって……」
潰れた胸から絞り出すような声。楽俊は目を大きく瞬かせ、口を慎んだ。思慮深く優しい瞳が陽子を映し、やがて鼠の口元がふっくりと綻ぶ。
「そうか」
小さな温かい手が、力なくぶら下がる陽子の手を取る。
「じゃあ、ゆっくりしていきゃあいい」
楽俊はそのまま陽子の手を引いて、ぽてぽてと一つしかない椅子へ案内した。が、陽子は頑是ない子供のように首を横に振った。
「勝手に押し掛けてきたのに、私だけ座る訳にはいかない。あっちで一緒に座ろう」
女だとは、特に女王だとは思えないほど武骨な指が指したのは臥牀(寝台)だった。
「……」
確か、前回もその前も釘を刺したはずだがなあ、と楽俊は髭を萎れさせる。まあ榻(長椅子)なんて洒落た物は無いのだから仕方ない。
薄暗い臥牀の端に肩を並べて腰掛けて、赤い斜光の中で塵が輝く様を眺める。
――いったい、何があったんだろう……?
項垂れる親友を案じ、楽俊がその横顔を窺えば。ひとつに括って纏めた紅の頭がゆっくりこちらへ倒れてきて、しなやかな身体の重みと温もりが楽俊の頭や肩に乗った。(ひゃあ!)
「少しだけ、このままでいてくれないか」
「あ、ああ……うん」
楽俊はガチガチに緊張したまま、コクンと頷く。本当にどうしたのだろう?……いいや、問題は何が起きたかじゃない。此処まで降りて来てしまうほど、陽子の心が弱っているということが問題だ。
半獣の親友は、陽子と一緒に己が胸を痛める。
――陽子……陽子は天の階を昇って、神の高みへと羽ばたいたんだ。今や、その身に慶国の全てがかかっている。本来は、おいらの元になんか戻って来ちゃいけねえ。
だから、楽俊はほんの少し頭を預け返して祈った――玉京におわします神々よ、どうか陽子の辛苦をおいらに背負わせてください。それでおいらが潰れたって構わない。陽子は永遠に前を向いて闘い続けなきゃならないのだから、辛い荷物は全部ここに置いてゆけばいい。
投げ遣りに放り出された腕がなんだか侘しげに見えて、つい引き寄せる。すると、陽子は甘えるようにぎゅうっとしがみついてきた。短い毛並みに頬を擦るように埋め、掠れ声で囁く。
「ねえ楽俊……」
「うん?」
「確か、来年には卒業だよね?」
「……うん」(あのさ陽子、耳に息がかかってくすぐってえんだが・赤面)
「進路は決めたの?どうするの?」
「まだ考え中だ」
「まだ?!」
声が跳ね上がり、陽子はいきなりムクッと身を起こした。
「前の便りでも、その前でも訊いたのに、考えているとしか言ってくれないじゃないか!……楽俊、本当はどうするつもりなんだ? 言えないのか? 就職先に苦労しているなら私が――」
互いの目をまっすぐ覗き込んで、陽子はまた、すぐに目線を下げた。
「……ごめん」
しょげかえって謝罪する。
「楽俊は英才だ。そんなわけないよな……ごめん。……あのさ。私は楽俊の選択に口出しなんてできないし、するつもりもないよ。楽俊の人生は楽俊のものだ。何をしてもいい。どんなに変わってもいい。どれだけ遠くへ行ってもいいんだ。ただ――」
勇ましい言葉とは裏腹に、僅かに潤む翠瞳が叫んでいる。
――この手を離さないで。私を捨てて去らないで。お願いだ、どうかこのまま変わらないで。
楽俊はそのつぶらな目を穏やかに細める。本当に陽子は嘘をつくのが下手だ。
彼女の本心は吐息に交じって零れ落ちる。
「できれば……仙になって欲しいんだ、楽俊も」
優しい青年は口をつぐんだまま、おっとりと耳を傾けている。
「そして、便りだけは絶やさないでくれ。時々、こうやって会いに来るのも許して欲しい。でないと……私は糸が切れた凧になってしまうから」
寄る辺も当てもなく、ただ暗い虚空を舞う抜け殻になってしまうから。
「でもこれって、ひどい我儘かな……?」
「そんなことは……」
ねえさ、と言いさして、楽俊はふと気づいた。
――糸が切れた凧、か。そういや、陽子は常世(こっち)に『家』も『故郷』も無いんだな。
楽俊は改めて陽子に向き直った。力ばかりが籠もる陽子の腕を、小さな鼠の手がさすって宥める。
「大丈夫だ、陽子。安心しな。おいら前々から官吏に――仙になるつもりだったぞ。鸞の便りもやめねえ――陽子が忙しくなけりゃな」
みるみる弱まる光の中で、見つめ合う二対の瞳だけがキラキラ輝いている。楽俊は微笑んで、こりこりと頬を掻いた。
「実はな、進路の件はあまりにも引く手が多すぎて、逆に困っているんだ……ありがたい話ばかりなんだがなあ。延台輔があちこちでおいらの話をしてくださったみたいで、前評判が良すぎて身が縮むくらいだ。だから、本当に考え中なんだ。陽子にはちゃんと決めてから話をしようと思って――でも、こちらこそごめんな、黙っていたせいで不安にさせちまったか?」
陽子はまた頭を振る。
「ううん。……それなら、良かった」
陽子の表情がややホッと和んだのを見、楽俊はさらに言い募る。
「なあ陽子、おいら約束するよ。これからも――いつでも、どこでも、何をしていても、おいらは陽子を待っている。声が聞きたくなったら鸞を飛ばしてくれ。会いたくなったら、いつでもおいで。扉も窓も開けているから――ちゃんと『おかえり』と言って迎えるから」
紅唇が開いた。翠瞳が揺れる。楽俊は明るく笑う。
「だから、ここでちょっと休んで元気になったら、また頑張りに戻るんだぞ」
――おいらは変わらないよ。いつまでも陽子を見守っているから、帰る場所なら此処に用意しておくから。陽子は何も心配しなくていい。陽子らしく、精一杯がんばってくれよ。
紅い睫毛が上下して、一筋の涙が零れた。
「ありがとう」
それから陽子は、手の甲で頬の雫をぐいと拭く。泣きながら笑ってみせる。
「あははっ。ホントに嬉しいよ、楽俊。……ただいま」
「ああ。おかえり」
楽俊もひときわ大きく笑って、
「じゃあ、まずは茶でも淹れてこようか。そういや、夕飯はどうする? 腹が減ってはなんとやら、だ。食堂に行ってみるか」
「うん……うん」
陽子はべそをかきつつ何度も頷いて、突如、ガバァッと楽俊に抱きついた。
「ありがとう、らくしゅーんッ!!!(感動したっ!)」
「だから慎みを持てってえぇぇぇぇ!!!!」
勢い余って二人転がった臥牀の上。
どこからともなく、湯菜の優しい香りが漂ってきた。
<了>