桜の決意
2007/05/12(Sat) 05:27 No.159
あなたがいれば、他に何もいらない。
本気でそう思った。あのとき、素直に泣いて縋れば、あのひとは、留まってくれただろう
か──。
広い背を見送っては泣き崩れる夢を見る。それでも、現実に枕を濡らすことはない。目を覚まして自嘲の笑みを浮かべる。それでも君は泣かないんだね、と言ったひとにも、笑みを返しただけだった。涙など、あの日、あの木の許に置いてきたのだから。
陽子は庭院に向かい、薄紅の蕾をつけた木の幹にそっと触れた。あなたがいればそれでいい。今尚、その言葉を口に出すことはできなかった。それは、陽子を見守る人々を、手酷く傷つける一言──。
あなたに、ここに、いてほし
い──。
桜に額をつけて、胸で呟く。あのとき、そう告げたなら、あのひとはきっと、では一緒に逝こうか、と人の悪い笑みを見せただろう。覚悟のない言葉など、すぐに見透かすひとだから。
泣いても喚いても、あのひとを留めることなど、できはしない。あのとき、陽子にできたことは、ひとつだけ。
見送るか、共に逝くか、選ぶこと。
ほんとうは、何もかも捨てて、一緒に逝きたかった。けれど、それは許されないこと。誰が許しても、景王陽子が己を赦せない。分かっていることだった。
尚隆、今、あなたに会いたい。
桜に小さく囁くと、忘れていた涙が、瞳の奥に染み出した。
「──主上」
永い月日を共に過ごした半身が、そっと声をかけてきた。陽子は桜に身を預けたまま、呟くように問うた。
「──景麒、私……もう、楽になっても、いいかな……?」
「主上──お心のままになさいませ」
穏やかな応えに驚いて振り返ると、半身は微かな笑みを浮かべていた。陽子は泣きそうに笑い、その肩に頭をつけて囁いた。
「──ありがとう、景麒。お前は……利広と同じことを言うんだな……」
君は思うままにするといい。
風来坊の太子はそう言った。そんなわけにはいかないよ、と陽子が否定するたびに、誰が止めても私だけは止めないよ、と笑ってくれた。
「──主上は、充分国に尽くされました。もう、自由をお望みになってもよろしい頃です……」
いつもと変わらないぶっきらぼうな声。しかし、陽子をそっと抱き寄せる景麒の腕は微かに震えていた。ありがとう、もう一度告げて、陽子は半身を抱きしめた。
それから、陽子は鸞を用意させた。南の国の太子に宛てた言葉は、ただ一言。
「会いたい」
晴れやかな声で初めて告げたその想いは、きっと風を運んでくるだろう。そして、風は優しく見送ってくれるだろう。そう思い、陽子は淡く笑んだ。
2007.05.12.
後書き
2007/05/12(Sat) 05:39 No.160
去年、「桜夢」を書いたとき、一切省いた部分でございます。
尚隆登遐後、「来訪」連作がくるはずだったのですが、
あの頃はまだひとつも書いておりませんでしたので。
今回、「風来」「風想」「夜桜」を書いて、
いただいたご感想に触発されたもののひとつでございます。
>利広の手を自らとるのか?
>取ったら取ったで、なぜその手を離したのか?
この問いには「来訪」連作にてご回答できればいいなと思っております
(いつもの科白ですが、気長にお待ちくださいませ……)。
Kさま、ありがとうございました!
2007.05.12. 速世未生 記
ありがとうございました(泣) 未生(管理人)
2007/05/13(Sun) 05:55 No.167
>空さん
末声は苦手、とおっしゃってらしたのに、ご感想をくださり、ありがとうございます。
しかも、続きを読みたい、だなんて……(泣)。ほんとに嬉しいです。
続きは、いつか書けたらいいなと思っております。ありがとうございました!
>けろこさん
このように痛い作品にご感想をくださり、ありがとうございます。
このとき、陽子も末声を決意したときの尚隆に想いを馳せたことでしょう。
そして、自分の選択は間違っていなかった、と確信できたはず。
それが「解放」なのではないか、と思うのです。
続きはゆっくりお待ちいただけるのですね。ありがとうございます。