花 埋
縷紅さま
2007/03/25(Sun) No.27
頭の上の真っ青な空に、時が過ぎて行くのが見える――。
空は悲しいくらいに濃い青で、絶え間なく姿を変える雲の白さが眩しかった。
その雲もいつか流れ去り、後にはただ空だけが広がっていた。
大地に四肢を投げ出してただ静かにそれを見上げていると、いつか自分も空の青に同化してしまうような気がした。
生暖かい風の吹くその地は、人の住むべき場所ではなかった。
様々な危険に満ちたその地を人々は「黄海」と呼ぶ。
妖と、天の加護を必要としない者の住む国――黄海で、僕達はなんとか上手く暮らしてきた。
故郷の北の国とは違って、そこは一年中野宿をするのにちょうどいい暖かさだったし、食べ物も水もたくさんじゃないけれどどうにか手に入れることが出来た。もちろん危ないめに遭うことも多かった。時には無性に人恋しくもなったけれど、それでも誰に遠慮することなく暮らせるこの場所は、僕達にとってはそれなりにいいところだったと今でも思っている。
誰の手も借りず、誰から愛されることもない日々。
それはずっとずっと昔、僕がちっぽけな小童だった頃と同じだ。
だけど、唯一つ違うのは……
僕には守らなくてはいけない大切な約束がある。
大切な友達との、約束。
――その約束を守るために僕は生きている。
約束、と、その言葉を思うだけで、心がふわりと温かくなるのはどうしてなんだろう。たくさんの罪で汚れている僕達が、幸せを願うことなんて許されるはずもないと知っている。けれどそれでも、この温かさがもたらしてくれるものを捨てることはできなかった。
かつて君と再会したあの日、僕は君に覚えていて欲しかったのか、それとも忘れてしまっていて欲しかったのか、今でも良く分からないんだ。ただ、僕の目に映った君は、昔と変わらず清廉で優しかった。
「友達」という言葉すら持たなかった僕に、初めて友情をくれた君――それからの僕がどれほど君の存在に救われたか、分かるかい?
そして、どれほど君の存在が、僕を闇の底に突き落としたのかも。
できるならば、そう、僕達の手が罪に濡れる前に会いたかった。
せめて、あの日の君が僕を忘れてしまっていたら良かったのに――。
でも君は何一つ変わらず優しくて、僕はその優しさから目を背けることしか出来なかったんだ。
君を穢したくない、傷つけることなんて出来ないと思う気持ちと同じだけの強さで、心のどこかでは、君が僕のところまで堕ちてきてくれることを望んでいた。
寂しい、寂しい、寂しい。
一人は寂しい――。
だから僕の傍にいて欲しかった。
叫んでも届かない言葉。伸ばしても届かない手。
自分を穢すことでしか僕は彼の傍にはいられず、君を穢すことでしか僕は君の傍にいられなかった。
だって僕の手は、もうとっくに血塗れていたのだから。
そんな茶番はいつまでも続くものじゃないって、分かっていたはずなのに。
それでも君は、君の選んだ王は、僕に住むべき場所をくれると言った。
その時どうして信じてみようと思ったのか。
ただ彼らの見せてくれる世界を確かめたくて――。
約束という人を繋ぐ言葉の響きが愛おしくて、僕はこれまで生きてきた。
――だけど、もう、駄目かも。
大きいの――ろくたは死んだ。
そしてまた、僕は一人きり。
守ってくれるものも、守るべきものもなく、ここで野垂れ死にしようとしている。
空はどこまでも青く澄み、時だけが僕の上を通り過ぎていくのがみえる。
指先はもう冷たすぎて何も感じない。体中が少しづつ冷えていく。
生暖かいはずのその地の風は、北の国の木枯らしのようだった。
腕に、足に、背に、無数に負った爪傷から、自分の生命を繋ぎとめる暖かなものが流れ出ていくのを感じる。
――寒い、寒くて凍えそうだよ。
耳の奥で低く鳴っているのは木枯らし。
阿母に手を引かれ、最後に聞いた、木枯らしの音。
重くてたまらない瞼を閉じて、じっとその音を聞いている。
神経が研ぎ澄まされていく気がするのに、痛みはもう感じなかった。
――ああ、人はこうやって死ぬんだ。
僕達が奪った者の命は、どこに行ったんだろう。
償うことも出来ず、ここで死んでいこうとしている自分――
知らず、溢れてくる涙。
――僕は結局、何を為すことも出来ず死んで行くのか。
たった一つの約束すら果たせずに。
それだけが、悲しかった。
でも、僕達の犯した罪を省みれば、これも当然のことなのかもしれない……。
一筋の雫に濡れた頬が、小さな柔らかいものの重みを受け止めるのを感じた。
……ひらり……
瞼を開くことが出来たのかどうか、良く分からない。
でも、無数の小さな白いものが目の中に染み入る青に影を作っていた。
それは、ただ静かに舞い落ちてくる。
ぼたん雪のようだと思った。
透明な空気の中を、沈むように降って来る春の使い。
滲んでいく視界が、雪に包まれる。
……ひらり……ひらり……
白い欠片は、故郷の山を思い出させた。
幼い頃父に抱かれて伸ばした手に、落ちてきた白い雪。
それは手のぬくもりで、形を失い消える。
たった一晩で、枯野を真っ白に埋め尽くす不思議なもの。
雪は失われた命を埋めていく――。
動かなくなった僕の体を覆うように、それは絶え間なくひらひらと舞い落ちてくる。
やがて白に埋め尽くされた世界で僕は目を開いた。
咽るような香りの花弁が僕を覆い、見上げればそこには一本の木が立っていた。
雲のように、満開の白い花びらを付けた桜。それは死にゆく命の残滓を吸い咲き誇る。
無数の花びらの一つ一つが僕の体の埋み火を絡めとっていく。
どこまでも真っ白な世界に、静かな声が響いた気がした。
「お前の命を我に捧げ、安らかな眠りを受け取るか?」
声――否、それは音ではなく頭の中に直接入り込む言の葉。
「あるいは、この世界の観察者となり、永遠に流離うか?」
安らかな眠り、それは疲れ果てた僕にとってこの上なく甘い誘いだった。
しかし、僕の心の奥底に渦巻く叫び声が、僕に安らかな眠りを拒否させた。
桜の呼び声に重なるその声は、僕を断罪する失われた命の言葉。
「お前ガ安らいで、赦さレるというのカ」
真っ白い花弁に包まれた世界に漂う執着に、僕は酩酊した。
赦せないのは罪を犯したことなのか、それとも約束を守れないことなのか?
僕にはもう、それすらも分からなかった。
安らかな眠りなどいらない。
それが正しいことがどうかなんて分からない。
でも、僕には守らなくてはいけない約束がある。
――僕は、死んでいった者達の願った国を、見届けなければいけないんだ。
その時、花弁よりさらに真白な光が僕の顔を照らした。
静けさの中に、僕は言葉なきものの存在を感じた。
微かに開いた唇から僕の意識が、明確な形となって紡ぎだされていった。
「僕は、見届けたいんです。人であった者として、この世界の行き着くところを」
僕を包んでいた桜花は消え、いつのまにか、そこには白い路が雲の彼方へと続いていた。
僕はその方向へゆっくりと手を伸ばした。
あたりを包む白い光は、激しい流れとなって僕の内へ流れ込んだ……。
◇
令乾門を抜け黄海の内部に入ったところ、人の地の終わりには一つの城砦がある。
そこは黄海に入る人々にとって最初で最後の、安らげる「人の居場所」である。
城砦の片隅にある小さな祠廟の後ろ、小高くなった丘の上には、石造りの低い屋根を見下ろすように枝を張って一本の老樹が立っていた。その樹がいつからそこにあるのかを知るものはない。それは春の安闔日の人々の波が通り過ぎ、城砦に元の静けさが戻る頃、雪のように真白な花を咲かせる。
その地に住むものは花を愛でることもなく、それはただ静かに咲いて、密やかに散っていく。
花の下に眠るものを悼むように、そして愛しむように。
(了)