春 宵
焼霞さま
2007/05/20(Sun) No.225
景麒が、休暇がほしいと言い出した。
赤楽五十一年。春。暁天はここ数日暖かな陽気に包まれていた。
長い波乱の時代を過ごした慶だったが、現景王赤子の統治が五十年に及んで、国中がかつてないほどの活気を帯びていた。隣国の雁、南の奏に比べれば、たった五十年かもしれないが、慶の民にとってそれは久方ぶりの長い平安だったのだ。自然、王を言祝ぐ者が増えた。懐達、という者も、先頃大規模な官の異動が済むとともにほぼ皆無になった。それはもはや死語となりつつある。一方で、巷では陽子という字の娘が増えた。王はそれだけ民に慕われている。
そんな折、宰輔が何を思ったのか王に一時の休暇を申し出たのだった。
「景麒が? 休暇願い??」
唖然とする景王――陽子に、冢宰浩瀚もまた、その怜悧な顔に腑に落ちない色を浮かべていた。
「はい。主上がおっしゃるならわかるのですが、台輔がそうおっしゃることなど今までございませんでしたので、理由をうかがったのですが教えていただけず」
「……何か今、皮肉らなかったか?」
「別段」
さらり、と返されて、陽子は肩をすくめる。
確かに、陽子は頻繁に宮城を出る。国内の視察が主な理由だが、息抜きも
含まれていることは否めない。それが多少なりとも冢宰の負担になっていることはわかっているから、逆らえない。
「まあ、いい。それで? 政務に支障はないのか」
「いえ。台輔は、州侯としての政務から宰輔としての政務まで、来月分の書類にまで御裁可を下さっておりますから、さして支障はございません」
今、台輔は、ってところを強調しなかったか?――というのは一応呑み込んでおく。
「……わかった。で、何日ほどだ?」
「二日、長くて三日とおっしゃいました」
「……」
なんで二日程度の休暇をとるのに二か月分の書類を片付けとくんだ、嫌味か?――というのも呑み込んでおく。
「お出かけになられるそうで、休暇の間は宮城を留守になさると。主上には指令を五つほどつけておくので、いつ何時たりともすべてお傍から話すことだけはなさらぬように、とのことです」
「わかった。そこまでいうなら行かせてやれ」
ポン、と御璽を書類に捺すと、浩瀚は丁寧に礼をとった。
「御意」
そしてそれから二日後、景麒は約束通り帰還した。
が、帰還するなり仁重殿に籠り、朝からずっと出てこない。誰ひとり、それこそ世話役の女官から瑛州府の官まで、たとえ王であろうとも仁重殿の立ち入りを拒否した。そして今、日が傾いてきている。
「……何を考えているんだ、あいつは」
「さあ?」
「鈴は気にならないのか?」
「だって、台輔はご政務をすっかり片づけてしまわれたんでしょ? 文句を言う理由がないわ」
「うっ……」
なんで、台輔は、なんだ。
「それとも陽子、台輔を失道に追い込むようなことやったの?」
「なっ、何をいいだすんだ!」
冗談よ、と鈴が笑ったとき、祥瓊が堂室に入ってきた。
「ね、今、おかしな話を聞いたのだけど」
「どうした、祥瓊」
「仁重殿付きの女官がね、さっきようやく入殿を許可されたらしいんだけど、まっ先にお湯の支度を命じられたんですって」
「お湯? 湯浴みってこと?」
「なんで」
「それが、台輔ったら、全身土まみれだったそうよ」
「土まみれ?」
「御髪には花びらまでつけていたって」
「花びら?? わけがわからん」
「でしょ?」
「……わけがわからない輩で申し訳ない」
突如背後からかかった声に、慶国名物三人娘は一様に、びくり、と背を震わせる。
「あ、ああ、景麒。おかえり」
「いらしてたんですね」
「ええ」
切って落とすような口調に、娘たちは半歩下がる。
が、景麒はため息を一つ落としただけだった。
「――主上。仁重殿にお越し願えましょうか」
てっきり嫌味か説教がくると思っていた陽子は拍子抜けした。
「……え? 仁重殿??」
「……お厭ですか」
心なしか、景麒の声が寂しそうに聞こえた。陽子は慌てて首を横に振る。
「い、いや、そういうのじゃない。ただ、おまえが仁重殿に招いてくれたのは初めてだから」
「では、お願いできますか?」
「う、うん」
ちらり、と祥瓊と鈴に視線を送る。二人とも困惑した風で、首をかしげながらもいってらっしゃいといってくれた。
「……」
「……」
無言で先導する麒麟。それに無言でついていく王。なんとも居心地が悪い。そもそも、こうして景麒に招かれる、ということがあまりなかった。五十年一緒にいても、そんなことは皆無だった。初めてのことに、戸惑いを隠せない。しかも、この能面のような顔からは、一切の感情も意図も汲み取れない。
「……ええと、景麒、休暇はどうだった」
「どう、とは」
「え、だ、だから、楽しかったか?」
「別段、楽しくはありませんでしたが」
「……そうか」
談笑する、ということは、端から期待するだけ無駄な相手だ。
陽子は心中でため息をひとつおとしたが、次の瞬間、文句を言ってやろうと思って見上げた麒麟の顔に、普段はめったに見られない微笑を認めて、一瞬呆けた。
「ですが、そうですね、幸福でした」
「幸福……?」
ここです、と景麒が角を曲がる。陽子は慌ててそれに続いた。すでに夕日も沈み、白い月が昇っている。また浩瀚に叱られるかもしれない、と思ったとき、視界が開けた。
そして、瞠目した。
仁重殿の最奥。小さな中庭だった。その中心に、一本の木が植えられている。
まだ、陽子の背丈とさほど変わらないほどの大きさしかない、若木。しかし、華奢な枝には美しい花弁を誇らしげに開いていた。その花の、限りなく淡い紅色。
「――桜だ」
陽子は思わず駆け寄る。
こちらにはない木だ。梅や桃はあったが、どういうわけか桜はなかった。可憐な花はまだほとんどが蕾。それさえちらほらとまばらである。しかし、早咲きの数輪が眩しいくらい美しい。
「……延台輔に伺ったのですが、」
景麒の言葉に、陽子は我に返った。
「これが、あちらの国ではもっとも愛された花だと」
「……そうだね。普段は花を愛でないような人でも、桜が咲くと喜ぶ」
たまらなく懐かしかった。ソメイヨシノだろうか。淡い淡い薄紅。
「お気に召しましたか……?」
おずおずと問うてくる半身にうなずいてから、はたと思う。
「どうして桜がここにあるんだ?」
聞いてから、あ、と声を上げた。
「まさか、おまえ、蓬莱に行ってきたのか?」
景麒は表情を変えずにうなずいた。
「はい。そろそろ見頃だと、聞いたもので」
「おまえ……どうやって?」
聞くといささかばつが悪い顔をする。
「――山にある物は、どれも大きくて持ち帰れず。罪とは思ったのですが……商家から」
――盗んだのか。景麒が?
「なんでそこまで」
詰問するように言うと、なお困ったような顔をする。
「……感謝を、申し上げたく」
「え?」
景麒はいきなり、叩頭礼をとる。ぴたり、とその白い額が陽子の足の甲につけられる。
「御即位より五十年のご健勝、心よりお慶び申し上げ、お恵み下さった安寧に、心より感謝申し上げます」
驚いて言葉の出ない陽子を、景麒は仰ぎ見る。紫紺の双眸が穏やかに細められた。
「本当に、感謝しております。主上」
「景麒……」
「主上も御即位から五十年。大きな節目を迎えられました。私は主上から、豊かな国と穏やかな民の笑顔を与えられました。――感謝しております」
蓬莱で見出した非力なばかりの少女。またか、と思った。辟易していた。しかし、少女はいまや、ひとりの王になった。試練のたびに成長を遂げ、治世わずかに五十年で名君と謳われるようにさえなった。景麒は心からそれが嬉しく、また、一方で寂しくもあった。申し訳なくもあった。自分は、何一つ主の役に立っていないのだ。蓬莱から強引に連れてきて、無理矢理玉座に押し上げたにもかかわらず、自分は全くと言っていいほど役に立っていない。主はいつも自分の力で脱皮を繰り返したが……景麒にとって、それは嬉しくも寂しいことだった。
せめて、感謝を伝えたい。けれど、方法を知らない。
頼ったのは隣国雁の麒麟だった。
――贈り物はどうだ? 蓬莱でも常世でも、とにかく女って生き物はぷれぜんとを喜ぶからな。
いわれて、景麒なりに考えて考えて出した結論が、この木だった。
樹木を記念に贈ろう、と思いついたとき、我ながら名案だと思った。五十年の節目に一本の木を贈る。宮城にそれを植えよう。そして主の治世が伸びた分、気もまた伸びていく。つける花の数も増える。なんと瀟洒な思い付きだろう、と。
それで延麒に、一枚の紙片を出したのだ。主が政務の合間、手慰みに紙片に描いた墨の花。
――桜だ。
あえて蓬莱の花を選んだわけではない。ただ、主の好む者を贈りたかった。
「……お懐かしいですか?」
「そうだな、懐かしい、とても」
主は穏やかな顔で、しかしどこか泣きそうな顔で花を見つめた。ざわり、と景麒の胸中を嫌なものがよぎる。自分はまた、主の心を害したか。
「……これを見て、わたしが郷愁をそそられるとは思わなかったのか?」
正直、それは真っ先に頭に浮かんだことだった。しかし、
「……私は、主上を信じておりますから」
信じている。この方は決して自分も、慶の民も見捨てはしないと。ただ、時々は懐かしんでもいいのではないだろうか。この、まだ少女の域を出ない人から、持っていたすべてを奪って連れてきてしまったのは、この自分だ。それを偲ぶことまで、奪ってしまいたくはなかった。
意外そうに陽子は眼を見開いた。翠の宝玉は見開かれ、そして泣き笑いのようになった。
景麒は慌てる。思わずかつての小さな麒麟を思い出した。
「その、主上?」
すまない、といって主はうつむく、袖で涙をぬぐった。――また、わたしは何か言葉が足りなかったか? それとも余計な事を言ったか?
逡巡する景麒の両手を、主は握った。
「……主上?」
「いや、大丈夫だ。ちょっと、感傷的になった」
「……」
「嬉しいよ」
見上げてきた顔は、いっそ晴れやかだった。包まれた両手があたたかい。
「おまえが気をかけてくれて、本当に嬉しい」
「――はい」
景麒は主の手を握り返した。剣を握ったために固くなり、筆をとるためにタコのできてしまった、しかし依然として小さな手。こんなにあたたかいものだとは知らなかった。
「今夜はもうしばらく、桜を愛でていたいな」
「構わないでしょう、きっと」
「そうかな」
「わたしが許可した、と浩瀚にはおっしゃればよろしい」
「そうか」
陽子はくつくつと笑った。
主従は寄り添うように、主にとっては祖国の、僕にとっては異境の花を見つめていた。
月が、辺りをおぼろに照らし出す。
景麒は、王とあるこのときこそが至福だと、改めて感じていた。
春宵一刻値千金――。
翌日。
陽子は嬉しそうに女史と女御に話して聞かせた。
「へえ、台輔もかわいいところがあるのねぇ」
鈴はくすくすと笑う。
「あら、ということは……」
祥瓊が思いついたようにいった。
「その木、ひょっとして台輔がご自分で植えられたのかしら?」
「え?」
陽子は驚く。そこまでは考えていなかった。
「なぜ?」
「だって、台輔付きの女官たちに台輔はまず湯浴みの支度をさせたのよ? 土まみれで、御髪に花びらをくっつけて。それってつまり、ご自分で穴を掘って植えたとしか……」
陽子はおどろいて眼を見開く。
「言われてみれば……」
「台輔が、ねぇ」
鈴が吹き出したように笑いだす。陽子も祥瓊も、想像して、こらえきれずに笑いだした。
鈴を転がすような娘たちの笑い声が、今日も正寝を彩る。
赤楽五十一年四月。慶国金波宮に異境の花が満開となった。
その二十年後、立派な大木となった桜の噂を聞きつけた隣国の主従が、<花見>という風習を言い訳に、春になると頻繁に押しかけて宴席を催し、宰輔が冢宰に皮肉を言われるが、それはまた、別のお話。
<完>