「管理人作品」 「08桜祭」 「玄関」 

桜の眠り

 ──目覚めよ。さあ、今こそ目覚めの時。

 柔らかな声がする。暖かく心地よいその響きに、今年も心は逸る。しかし──。
 いつしか桜は老いて、春風の誘いにも軽やかに応えられなくなっていた。春は疾く過ぎ行く。それでも持てる力を振り絞り、桜は今季も精一杯花を咲かせていた。
 まばらに咲いたその花も、優しい風にさえ、ひらひらと散っていく。ああ、あと何度、花を咲かせることができるだろう。

 待っているよ。けれど、もう、残された時は、僅か。

 桜は溜息をつく。そしてまた、浅い眠りに落ちた。
 桜は夢を見る。男と、娘が、咲き誇る花に感嘆する様を、鮮やかに。瞳を輝かせて見上げる娘に、桜は枝を揺すって花びらを降らせる。小さな手には持ちきれぬほど沢山の花を──。

「──ありがとう……」

 震える声が、小さく囁いた。昔よく聞いた、懐かしい声。桜は夢現で目を覚ます。見下ろすと、あの娘が、桜を見上げていた。

「ほんとうに、ありがとう……」

 老いた桜の幹にそっと手をあてて、娘はしみじみと告げた。独りで現れた娘は、あの日と同じように、涙を浮かべて見上げていた。けれど。
 その涙は、あの日の慟哭とは違う。穏やかな、柔らかな、美しい涙。

 ──待っていたよ。ずっとずっと待っていたよ。

 桜は花もまばらな枝をゆっくりと揺すって娘に応えた。

「待っていてくれて、ありがとう」

 まるで桜の声が聞こえたかのように、娘は太い幹に身を預け、幸せそうに呟いた。それだけで、桜は満足だった。

 ありがとう。思い出してくれて、ありがとう。来てくれて、ありがとう。

 娘の温もりが、優しい声が、どんどん遠くなる。それでも、桜は、幸せだった。

 ありがとう。会えてよかった──。

 そして、桜は、深い眠りに就き、二度と目覚めることはなかった。

2008.06.09.

後書き

 「桜の呟き」「桜の囁き」の続編「桜の眠り」をお届けいたしました。 今頃桜のお話を……(苦笑)。 けれど、祭期間中には書きたくて書きたくて、けれど、「書けない」作品でございました。
 この度、由旬さん宅「閻浮提(えんぶだい)」に素敵に飾られた拙作「桜連作」と、 由旬さまがつけてくださったコメントを拝見しているうちに、妄想が……。
 季節はかなり外れてしまいましたが、結びを仕上げることができて嬉しく思います。 由旬さん、ありがとうございました!

2008.06.10. 速世未生 記

背景画像「さららのアトリエ」さま
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