桜の眠り
──目覚めよ。さあ、今こそ目覚めの時。
柔らかな声がする。暖かく心地よいその響きに、今年も心は逸る。しかし──。
いつしか桜は老いて、春風の誘いにも軽やかに応えられなくなっていた。春は疾く過ぎ行く。それでも持てる力を振り絞り、桜は今季も精一杯花を咲かせていた。
まばらに咲いたその花も、優しい風にさえ、ひらひらと散っていく。ああ、あと何度、花を咲かせることができるだろう。
待っているよ。けれど、もう、残された時は、僅か。
桜は溜息をつく。そしてまた、浅い眠りに落ちた。
桜は夢を見る。男と、娘が、咲き誇る花に感嘆する様を、鮮やかに。瞳を輝かせて見上げる娘に、桜は枝を揺すって花びらを降らせる。小さな手には持ちきれぬほど沢山の花を──。
「──ありがとう……」
震える声が、小さく囁いた。昔よく聞いた、懐かしい声。桜は夢現で目を覚ます。見下ろすと、あの娘が、桜を見上げていた。
「ほんとうに、ありがとう……」
老いた桜の幹にそっと手をあてて、娘はしみじみと告げた。独りで現れた娘は、あの日と同じように、涙を浮かべて見上げていた。けれど。
その涙は、あの日の慟哭とは違う。穏やかな、柔らかな、美しい涙。
──待っていたよ。ずっとずっと待っていたよ。
桜は花もまばらな枝をゆっくりと揺すって娘に応えた。
「待っていてくれて、ありがとう」
まるで桜の声が聞こえたかのように、娘は太い幹に身を預け、幸せそうに呟いた。それだけで、桜は満足だった。
ありがとう。思い出してくれて、ありがとう。来てくれて、ありがとう。
娘の温もりが、優しい声が、どんどん遠くなる。それでも、桜は、幸せだった。
ありがとう。会えてよかった──。
そして、桜は、深い眠りに就き、二度と目覚めることはなかった。
2008.06.09.
後書き
「桜の呟き」「桜の囁き」の続編「桜の眠り」をお届けいたしました。
今頃桜のお話を……(苦笑)。
けれど、祭期間中には書きたくて書きたくて、けれど、「書けない」作品でございました。
この度、由旬さん宅「閻浮提(えんぶだい)」に素敵に飾られた拙作「桜連作」と、
由旬さまがつけてくださったコメントを拝見しているうちに、妄想が……。
季節はかなり外れてしまいましたが、結びを仕上げることができて嬉しく思います。
由旬さん、ありがとうございました!
2008.06.10. 速世未生 記