戦士の休息
作 ・ griffonさま
2010/05/09(Sun) 18:12 No.766
遠征も終わり、と言ってももう良いだろう。明日早朝、天幕を畳んで飛燕に騎乗すれば、鴻基までは半日ほどの行程。そうすれば……。思わず口元が綻んでしまった。
夜半にふと目が覚めてしまった。戴の中でも南に位置するこの地でも、稀なほどの気温の高さで、行軍用の被衫一枚でも暑いほどだった。あまりの暑さに臥牀から出て、入口の覆いを払って半身を外に出してみた。ほんの少し、被衫から出た二の腕に風が触れただけで、ほっとしたような気がした。
ふと見あげると、天幕を建てた時には気がつかなかったのだが、星空を背景に淡い色合いの花が目に入った。桜だ。桜の咲く季節にこの陽気かと、思わず溜息が漏れた。
突然、風が撫でた二の腕を大きな手で掴まれた。右手でその手を押さえながら身体を捻り、身体を沈めて相手を巻き込んで投げを打とうとしたが、その手前で太い腕が身体に捲きついて押さえ込まれてしまった。喉の奥を絞るような音が漏れた。
「李斎」
左の耳朶に吹き込まれた息と共に聞こえた声は、明日になればゆっくりと逢う事も叶うと微笑んだ相手のもの。
「こんなところで投げられたのでは、従者達に音を聞かれよう。それでは逢瀬が楽しめぬ」
再び耳朶に声を吹き込まれて、身を竦めた。
「桜が」
身体の芯に芽生えた震えを隠すために、無理をして声を出した。その声も震えていた。
「ああ。美しい桜だ。だが私の腕の中にはもっと美しいものがある」
廻した左腕を押付けられ、被衫越しに胸にあたる筋肉から熱が伝わる。何時の間にか廻された右手の人差指で、触れるか触れないかの微妙な間隙で、下唇を撫でられた。身体の芯の震えが大きくなる。
「左将軍」
どうにか、非難めいた色合いを乗せる事に成功したが、声の震えは大きくなったような気がして、頬が熱くなる。俯こうとするが右手で下顎を掬われ、それも叶わない。
「何度言っても治らんな。二人きりの時は、その呼び方は止めよと言っている」
「ですが、今は公務中。明日には」
「李斎」
廻された腕に力がこもる。こめられた力の分だけ自身の力が抜けていく。身体の芯の震えは熱に変わっていく。
「……綜…」
つぶやいた瞬間に、自身の身体を支えるのは自身ではなく、廻されたその腕のものとなっていく。
――油断をした。こう言う人と知っていたのに……
―了―