桜 の 戯 れ
作 ・ 翠玉さま
* * * 1 * * *
2010/05/13(Thu) 21:59 No.832
冢宰府の浩瀚の執務する堂室から臨める庭院(なかにわ)には無数の花を纏った桜が内に取り込んだ陽の光を軟らかに放っていた。そこへ下界へ降りる前だとわかる袍を身に纏った主が「やあ」と気軽にやってきた。
その姿はいつもよりは上等で趣味のいい、良家の子弟といった出で立ちになっていた。
「そのお姿で行かれるのですか?」
主は腕を組んで浩瀚を睨めつけた。
「お前までそれを言うか。延王が動きやすい格好でいいと言ってくれたんだぞ。祥瓊がわたしが普段利用する短袍は許せないと言うのでこれで折り合いをつけた。女だから襦裙にしろとはセクハラだぞ」
セクハラの意味は主の側近であれば周知のことになっていた。主上の言うあちらと違って常世では性別による差別は存在しないので、知ったところで他の者に使う機会はない。
この言葉を知ったのは、初勅後にも「これだから女王は」と言う者達を主が陰で「あのセクハラ官吏が!」と怒りを込めて呼んだことに始まる。そのような者は現在この金波宮に殆ど残ってはおらず、久しぶりに聞く言葉に浩瀚はくつりと笑った。
「楽俊殿もいらっしゃるのでしょう?」
「だったら尚更、着飾れないな。楽俊がいたたまれなくなってしまう」
「この金波宮内で楽俊殿は大公有力候補と噂されておりますよ」
主は腕を解いて右の人差し指を立て、左右に振った。
「お前もその一人と噂されているのを知らないのか?」
「ちらりとも聞いたことはございませんね。いくら何でもわたしでは薹が立ち過ぎておりましょう。おおかた酒宴での戯れ言に違い有りません」
「それが大真面目な理由がある。わたしは見た目が若過ぎる上に胎果だから常世の常識に未だに慣れていない。しかし、良識派の冢宰ならその分を埋められるので大公になってくれたら安心なのだそうだ。それに、慶国で育っていないわたしの国への帰属意識にも一抹の不安があるが、お前なら地位や命をかけられることは和州の件 で皆が知っている。さらに冢宰を経験した大公なら、わたしの代理で各州や各国を訪問することもできる。お前ほど慶国の大公に相応しい者はいないと市井ではもっぱらの評判だそうだ」
「皆の期待で大公を選ぶなど愚かなことです。主上が真に必要と思える相手をお捜し下さい」
主は身を乗り出して浩瀚の目を覗き込んだ。
「わたしもお前ならいいんじゃないかと思っているぞ」
浩瀚は半歩退いて、視線を落とした。
「わたしは聖人君子でも、無欲な人間でもございません。凡人相手にそのような戯れはしないで頂きたい」
「無茶で我が儘な処も結構気に入っているのになぁ・・・」
主の呟きに浩瀚は溜息を付いてから気を取り直して主に笑いかけた。
「わたしに何か用があって、いらっしゃったのではないですか?」
「そう、土産は何がいいかと聞きそびれていたから来たんだよ」
この無邪気な言葉に浩瀚は大卓に右手を置き、左手で頭を抱えた。
「主上が無事にお戻りになること以上のものはございません」
「またそれか、いつもお前ばかりが留守番をしているじゃないか。今年は奮発してやれるぞ?」
「では、拙めと今暫しそこの庭院にお付き合い願えますか?」
主が首を傾げて「構わないが」と言うと浩瀚は庭院へと主を案内した。
* * * 2 * * *
2010/05/13(Thu) 22:01 No.833
浩瀚は桜に近づき、その枝を吟味すると、咲き始めの花の多い枝を手にして小刀で切り落とした。そして、切り口の先端を鋭く尖らせると「失礼します」と言って主の髪に挿した。
「この枝をわたしの代わりの供として下さい」
主は見開いた碧の瞳で浩瀚を見上げていた。
「この格好で花見に行けと?」
「よくお似合いです」
機嫌のいい臣下に彼の女王は溜め息をついてからくつくつと笑った。
「花見には粋な演出になるかな。このまま出かけるとしよう」
「留守居などお気に掛けず楽しんでらして下さい。土産話をこそ楽しみにしております」
「わかった、後は頼む」
主はそう言うと軽やかに身を翻して立ち去った。
終劇
* * * 追 加 * * *
2010/05/25(Tue) 18:42 No.974
「太師、主上に何をお聞かせしたのです?」
「どの話しのことじゃ?」
浩瀚は眉間を中指で押さえた。
「わたしを大公に、ということですよ」
「おお、そんなこともお話ししたな。悪い気はしまいて・・・」
太師は長い髭を撫でながら頭を上下に振って言った。
「何を企んでいるのです?」
「企んでなどおらぬよ。全ては可愛い弟子のため、これでお前さんの心も華やぐであろう?」
「冢宰の政務には無用です。余計な面倒を作らないで頂きたい」
太師はは目を見開き、おどけた顔をした。
「ほほう、主上を面倒と申すか」
「太師の節介を余計と申し上げているのです!」
「そう固く考えるでない。主上には大公の話題に免疫があった方がよいのじゃ。協力せい」
浩瀚は頭を抱えた。
「それが何故わたしなのですか?」
「そなたなら、主上が他の男を選んでも何とかなるからの」
「わたしは太師と違い、ただの地仙です。地仙といえば普通の人間、天仙のように達観などできようはずもない」
「そなたなら、いずれ儂を超えられるじゃろう」
「わたしは人外の者になるつもりなどありませんね」
浩瀚がそう言い捨てると太師は声を上げて笑った。