芳の春を偲ぶ
作 ・ griffonさま
2010/05/31(Mon) 00:37 No.1077
「すみ、ません……っ」
――気にするな…
言葉としては聞こえては来なかった。だが、確かに陽子は尚隆のその言葉を聴いた気がした。
峯麒が祥瓊を王にと訪れた時、陽子は真っ先に尚隆に鸞を飛ばしていた。桜の植木を大量に譲ってもらうためだ。
尚隆を介して得た猟木師からの情報では、こちらにある桜のうち、金波宮にある桜と似たものは、おそらく凌雲山ではどうにか育っても下界では厳しいかもしれないと言う事だった。芳の気候に合う桜は、やはり種類が限られるようだ。下界用には、花も小振りで木自体も小振りな桜を勧められた。人の背丈より少し高いほどにしかならないのだが、枝は大きく横に広がり、小さな花を一面に咲かせるのだとか。この種ならば、移植後十分な手当てをすれば、全く問題は無く、自然な繁殖もあるだろうと言うことだった。
陽子がその二種類の桜の発注を済ませた頃漸く、祥瓊は浩瀚に説得されて「オコモリ」から出て来たのだった。
その猟木師達は、延州国随一と尚隆から聞いていたとおり、未だ妖魔が徘徊する虚海をものともせずと、言いたいところではあるが、実のところ流石に柳を迂回して虚海を通る事は流石に出来ず、かと言って時間も無い。
範と恭の高岫近くにある別の猟木師の協力を仰いで恭から船便で送り、人は雁の空行師を一卒護衛として付けた上で空路を行った。
鷹隼宮の走廊沿いの桜並木は、祥瓊が玄武に乗る頃には整っていた。
蒲蘇の街にもまだ余裕のある万賈の庭などを選んで例の桜を植えさせ、残りの苗木は蒲蘇の猟木師達に任せることとした。
祥瓊の担っていたものは、慢性的に人手の足りない慶にとっては流石に大きく、日々引き継ぎを行なうが全てを引き継ごうとするなら、何時まで立っても蓬山に行けそうな情況になりそうもない。
特に掌客殿の管理については、祥瓊以外に背負える者も無かった。その第一の理由となっている相手からは、どこから嗅ぎ付けたのか、鸞に託した大きな溜息を陽子に運んできた。慶に赴く楽しみが一つ減ったと続き、さらには、登極の際は言祝ぎに必ず伺うと結ばれていた。
それを聞いた祥瓊は、そんな余裕が芳にあろうはずもないと愚痴を零しながらも、脳内の「鷹隼宮宝物庫在庫一覧」を捲っていた。
十分とは行かないまでも、陽子は出来る限りの事を祥瓊にしたかった。忙しく短い日々を祥瓊と共に過ごしながら、―― 親友が結婚する時の女友達の感じって、こんなのだろうかと、漠然と思っていた。
祥瓊の登極祝いの仕上げとして、漣にいた楽俊を行かせると、もう後は陽子に思いつくものは無かった。―― 本当に何か出来ることはもう無いだろうか 陽子の自問は暫く続いた。祥瓊と言う存在に対し、得るものばかりで何も返せていない自身が疎ましかった。
金波宮の園林の西端にある四阿に、陽子は一人で居た。欄干に両手をつき、雲海を眺めていた。俯いた頬を伝って涙が一滴零れてきた。
「こんな事を言ってはいけないんだ。いけないんだけど。ごめん、祥瓊。やっぱりわたしは寂しくて辛いよ。ずっと祥瓊には傍にいて欲しかったんだ」
思わず呟いてしまった。欄干についた両手に力を込めて、泣くのを堪えようとすればするほど、手の間に落ちる涙の数が増えていく。喉を絞るような嗚咽が漏れてくる。
くしゃりと頭を撫でられた。額から前髪のあたりを押さえるように、大きな掌が覆う。
「こんなのおかしいって判ってるんです。でも……でも」
掌の主は、答えなかった。
「すみ、ません……っ」
――気にするな…
答えは無かったと思う。しかし、陽子にはそう聞こえたように思えた。
「おまえはいつも、誰かのために精一杯やっている。流す涙もいつもそれだ。だが、今日くらい自分のために涙を流してやっても良いだろうよ。おまえが自分のために流す涙は、俺が拭ってやろう」
背中にある温もりに、ほんの少し身体を預けると、陽子はひとしきり泣いた。
―了―