桜 和
Baelさま
2011/04/15(Fri) 23:07 No.498
ひゅ、と。耳元で風を切る音がした。
見下ろす堂室は温かな灯りを零している。陽子は笑みを浮かべ、降りてくれと短く命じた。
跨るは騎獣ならぬ妖魔。けれど陽子を乗せるに慣れた使令は滑らかに下降し、官邸の中庭に主を届けた。そして、「有難う、班渠」という声を待って、影に潜る。
その影を足元にじゃれつかせながら、陽子は中庭に一つ面した明るい堂室の扉を、とん、と叩いた。
「すまない。誰かいるだろうか」
その瞬間、陽子の影で、ざわりと班渠が蠢いた。それに一瞬気を取られるが、間を置かず「主上?」と聞き慣れた低い声が扉越しに問うてきた。
「その声は、もしや主上ですか?」
「あ、ああ、浩瀚。遅くに済まないな」
陽子は班渠を見下ろしながら言った。頭だけ影から覗かせていた使令は、陽子と扉を見比べると、ずるりとまた姿を消した。
何だ? と首を傾げる陽子の前。いきなりそこで、かたんと扉が開いた。
「こんなところからお出ましになられるとは」
暗闇にふんだんに溢れ出した灯りに、陽子は反射的に目を庇う。
そんな彼女に、逆行になった背の高い影は僅かに笑みを含んだ声で、
「我が主上は神出鬼没であられる」
「いや、だから、そこは済まないと……」
と、陽子は目を庇う手を下ろして言いかけるが、途中で言葉を切った。そして、ええと、と首を傾げる。
「浩瀚だよ、な?」
「私の官邸へいらしたのでは?」
どうぞ中へと促しながら、陽子を迎え出た男もまた、首を傾げてみせた。
「そうなんだけど」
招かれるまま明るい堂室の中へ入り、くるりと振り返った陽子は、改めて男を眺める。
怜悧な面に穏やかな笑みを浮かべた男は、「けれど?」と問うた。その顔はもう、陽子のよく知る有能な冢宰のものだ。
何だか不思議な気分で、陽子は肩を竦めながら「驚いただけだ」と返した。
「例の雑劇の様子を見に街へ降りるとは、確かに聞いていたけど。浩瀚のそんな格好、滅多に見ないからな」
「ああ。これは失礼を」
と頭を下げる男は、常は隙なく纏う官服ではなく、市井の民と遜色ない格好だ。普段の威儀を孕んだ姿を見慣れていれば違和感を感じさせそうなものだが、妙に板にはついている。
そのせいで一瞬、別の男に見えたのかと納得した陽子は、気にしないでくれと声をかけた。
「いきなり来た私が悪い」
「完全に否定はせずにおきますが……春の使者たる突風は、報せなく吹くものかと思われますので」
「私は突風か」
「随分と華やかに吹き込んで下さいましたから」
──綺麗ですね、と誉められて。陽子はにっこり笑うと、「そうだろう」と、片手で抱えていた花枝を両手で抱き直した。
さわりと枝が触れ合って紅の花を揺らす。
仄かな香が漂った。
「正寝で剪定していたから、綺麗なところを貰ってきた」
「枝垂れ桜でございますか」
「時節はまだ先だろうが、雲海の上は気候が安定してるし陽当たりも良かったから、六分咲きだ」
これからの楽しみが出来たから、お裾分けに来たんだ。と言えば、浩瀚は僅かに苦笑して、主上、と窘めるような声をあげた。
「お心遣いは有り難く存じますが、何も主上ご自身が、このような時間に官邸までお持ち下さらずとも」
「いや。わざわざ私が来ないと、意味がないんだ。誰かに頼んでも、浩瀚に言ってくれないだろうし」
「と、仰いますと?」
「うん。……今日は、昼過ぎから浩瀚がいないから、私はそれなりにいっぱい頑張ったんだ。景麒や祥瓊に聞いてもいいぞ? 私が剪定した枝垂れ桜が欲しいと言い出した時も、頑張ったから構わないと二人して言ったくらいだ」
どうだ、と。胸を張って言えば、留守にしていた男は目を和ませて、はい、と頷いた。
「主上のお言葉を疑うなど、とんでもございません」
「うん。しかも桜までお裾分けに持ってきた。だから……浩瀚」
陽子は浩瀚を真っ直ぐに見て、一言。
「お土産が欲しい」
くれ。と、花枝を差し出しながら言う。
そんな陽子に対し、一瞬、目を瞠いた男は、次の瞬間、くつくつと抑えた声で笑い出した。
「いえ……失礼を。それで主上は、御自ら、私の土産を受け取りに来られた、と」
「女官に、お前にお土産をくれと言ってこいなんて、頼めないじゃないか」
「確かに。主上が女官にお命じになられたならば、その者はどのように言い換えるべきか、大層悩むことでしょうね」
正しいご判断──などと申し上げても良いものか。と、笑いを残した声で言いながら、浩瀚はするりと陽子に近づくと、そろそろ腕に負担がかかってきた花枝を引き取った。
「ともあれ、少々掛けてお待ち下さい。茶の準備をさせる間に、私は衣服を改めて参りますので」
「あ、いや。そんな長居をするつもりは……」
陽子は片手をあげて留めるが、いえ、と浩瀚は頭を振った。
「わざわざお運び下さった主上に、茶菓すら供せずお帰り願うなどという不敬は出来かねます。申し訳ありませんが、暫しお待ちを」
──ああ、それから。と、浩瀚は花枝を抱えたまま一つの棚に歩み寄り、両手におさまるくらいの箱を取り出した。そしてそれを、陽子の手の中に、「どうぞ」と置く。
桃色の紐をかけられた木箱は、意外に重い。
「何だこれ?」
陽子が首を傾げて箱を矯めつ眇めつすると、浩瀚は、くすりと笑んだ。
「主上のお求めになられたものですよ」
「え?」
「お土産です」
「は?」
頓狂な声をあげた陽子をそのままに、浩瀚は、「では、暫し失礼致します」と一礼して、堂室を出て行ってしまう。
そのすらりとした背中と手の中の箱を見比べて、陽子は、ことんと首を傾げた。
「あいつ……まさか、私が押し掛けることまで見越していた、とか?」
何だかそれは口惜しい。というか、我が国の冢宰は、一体どれだけ千里眼なのか。
陽子は、ある意味怖いぞと祥瓊や鈴に訴えようかと思ったが、正寝を抜け出したことを叱られるのがオチだと思い直す。そして箱を卓の上に置くと、ぐるりと堂室の中を見回した。
あまり広くもない室内は、八割の整然と二割の雑然が程よく調和して、居心地のよい雰囲気を作り出していた。静かな香に交じって、墨の落ち着いた香りが残る。華美さの欠片もないむしろ簡素な設えは、この堂室の主の為人を伺わせて好ましかった。
だが、と。陽子は首を捻る。
てっきり浩瀚のことだから、山のような本に囲まれていると思っていたのに、書棚に並ぶ本は存外少ない。
不思議に思って近づくと、衣の端が側の小卓に触れ、立てかけてあった細長いものがかたりと音を立てた。
興味を惹かれて見やれば、それは造りこそ地味だが使い込まれた風情のある刀。
そこで陽子は、「ああ、そうか」と顔を顰めた。
「……何かご興味を惹くようなものがございましたか?」
「え? 早いな、浩瀚」
振り返ると、いつの間に戻ってきたのか。衣服を改めた浩瀚が首を傾げていた。
手には茶の道具と花枝を生けた花瓶。
てっきり誰かに用意させるものだと思っていた陽子は、思わず瞬いた。
「あ。手伝おう」
「いえ。……では、これを。せっかくですので、映える位置に据えて頂けますか」
手を差し出した陽子に断りの言葉を紡ぎかけ、途中、思い直した様子で花瓶が託された。
おそらく大人しく座っていろと言っても陽子がきかぬと思ったのだろう。殆ど子供の手伝いだなと、くすくす笑いながら陽子は花瓶を抱え、卓の中央に置いてやる。
浩瀚が用意したのは、以前こちらへ渡る前に見たことがある鳥の卵に似た青灰色のつるりとした花瓶。余計な飾りのないあっさりとしたそれは、開きかけの紅を清廉に見せた。
「生憎と、私の官邸にはあまり華やかな花瓶がなくて。不調法で申し訳ありません」
「いや。私は、こういう風合いの方が好きだな。宮殿のは派手派手しくて、たまに目が痛い」
どうぞ。と、すすめられた椅子に腰掛けながら、陽子は言った。
「でも、すまないな。まさか浩瀚に手ずから茶の用意をしてもらえるとは思わなかった」
「私が全て用意したわけではありません。ただ、家人は大分年老いておりまして……。夜更かしが苦手なため、もう休んでよいと言い渡して、私が持って参りました」
──さすがに全部用意しては、この時間で衣を改めるのは無理ですね、と言われる。陽子はそれには頷いたが、それと、と続けた。
「不用意に脅かしたことも。……思慮が足りなかった。ちょっと驚かせてやろうとは思ったけど、でも」
「ええ、驚かされは致しましたが……。ああ」
浩瀚は陽子の目線の先に置き去りにされた剣を見つけ、苦笑した。
「私の臆病ぶりが露呈致してしまいましたね。ですが、お気になさらず」
「だが、私がお前に剣を握らせてしまったのだろう」
「剣を傍らに置いてしまうのは、単なる習慣のようなものです。今現在の主上の朝は、私が冢宰を拝命した頃のように乱れてはおりません。ですから今となっては無用の長物。ただ片付けるのを不精していただけです」
──だからこそ主上も、今後の官吏について語られたのでしょう。と言いながら、浩瀚は茶杯を差し出してきた。
「それにしても、私の怯えによく気がつかれましたね」
「怯え? 班渠が反応したのは多分、殺気だと思うぞ」
よくも言うと溜息を零した陽子に、浩瀚は、お茶が冷めてしまいますよと、さらっと返した。
「それに、私の土産を受け取りに来られたのでは? 打ち捨てられたままとは、些か寂しゅうございます」
「誰も打ち捨ててない。というか……土産は土産話と一緒じゃないと、価値が半減するだろう?」
「ああ、成程」
では、失礼して。と、浩瀚の長い指が桃色の紐を解く。
その動きを見ながら、結局、先程の剣の話を有耶無耶にされたことに、陽子は僅かに目を伏せた。
だが浩瀚が「どうぞ」と箱の蓋を開けた途端、その目がついつい丸くなる。
白木の箱に如何にも高級そうに幾つも並べられたもの。
まぁるく握った淡紅の餅に、巻かれた緑の色濃さが鮮やかだ。開けられた瞬間、ふわと広がった香りも懐かしい。
「……桜餅?」
「やはりご存知でいらっしゃいましたか。蓬莱に由来するこの時期の甘味として売られておりました」
「そうなのか。確かに懐かしい。……が、何でこんな高そうな箱に?」
と、陽子が首を傾げれば、「一般の民からすれば高直でございますから」と、浩瀚はあっさり答えた。
「確かに実りは回復し、日々を楽しむ民も増えました。ですが、餅米、紅、小豆、砂糖。いずれも未だ、贅沢品です」
──最近、塩の値は落ち着きましたが。と、付け加えられる。
陽子はそれを聞きながら、思わず動きを止めた。
浩瀚が、くすりと笑う。
「民が未だ楽しめぬ贅沢品と知りながら、自分はこれを楽しんで良いのだろうか。……そうお思いですか」
「浩瀚? 分かっているなら、何で」
「宜しいと思いますよ」
「え」
「贅沢品ではありますが、これを堯天にて普通に求めることが出来るようになった。その意味をご理解頂けるなら、楽しんで頂いて構いませんでしょう」
言いながら、浩瀚は一つ小皿に取り分け、どうぞ、と差し出した。
「こういった物を季節の折に求めるような富裕な者が慶に戻ってきた。それは取りも直さず、主上の治世が安定してきたと民が安堵した証です。心にも懐にも余裕がなければ、甘味なぞに贅沢する者はおりませんでしょう」
──ですから、次は更に多くの者が甘味を楽しめるような世を目指すべく、召し上がって下さい。と言われ、陽子は分かったと頷く。
「しかし、土産でまで学ばせるか。お前は」
「響いて下さらねば、全く意味ない行為ですね。向学心豊かな主上を戴き、臣下として喜びに堪えません」
否定しない己の冢宰に、陽子は苦笑すると「あ」と首を傾げた。
「でも、私だけで食べてもつまらないな。浩瀚、お前の分は? 甘い物は平気だった……だろう?」
一緒に食べようと誘えば、浩瀚は一瞬考えてから、「では、お毒見を致します」と手を伸ばした。
「うん。でも、気を遣わせて済まないな。本当は、土産と言っても、話だけで良かったんだ。……まあ、前に景麒に同じことやったから、反応を見たかったともいうか」
「それはまた。……台輔は、その時?」
「……小言の山を寄越した」
「成程」
それはご愁傷様でございました。と、笑いながら浩瀚は頷いた。
「ご愁傷様と思うなら、浩瀚は説教ではなく、ちゃんと話をしてくれるな?」
「さて、どう致しましょう」
「そう来るか。いいじゃないか。お前を残して私が視察に行くと言い張った訳じゃないんだし」
む、と唇を尖らせて文句を言うと、そうでしたねとまた笑われる。
半ば揶揄うような調子に、まったくと腹の中でだけ文句を言うと、陽子は土産物の桜餅を一口分切り取って口に入れた。
潰された餅米がふわりとほどける。甘さを抑えた上品な小豆の味が口の中に広がり、思わず頬が笑みを形作った。
「……美味しい」
「それはようございました」
「うん。……祥瓊や鈴にも分けてあげたいんだが、いいかな」
「勿論。此度のことでは女史や女御にも協力をしてもらいましたので。特に女史のおかげで雑劇は随分と盛況でしたよ」
「それは良かった。祥瓊も喜ぶだろうな。……協力といえば、後は景麒、だな。……ああ、だからこれか? 油を使っていないから、景麒にも食べられる」
「……本当は明日、執務の際にでもお持ちするつもりだったのですが」
と、直接ではないが肯定の言葉を返され、陽子は軽く首を竦めて受け流す。そして、それよりもと、急いで話を変えた。
「民が遊興に興じるには些か早いという意見もあったが、盛況ということは、それなりに皆、楽しんでいたんだな」
「はい。若い女性を中心にではありましたが、大分賑わっておりました。やはり堯天にそれなりに富裕な商人などが居を構えだしたのが大きいようですね」
「ふぅん……。私はこちらの雑劇は見たことがないんだよな。どういう感じなんだ? ああ、そうだ。それよりも、学生の──お前の役は格好いい?」
教えてくれと笑いながら言えば、浩瀚は僅かに苦笑して、そうですねと首を傾げた。
「小生──若い色男役は……本来はもう少し若手が演じるものでしょうが、やはり後の冢宰と考えたのか。さほど若くはなかったですね。私と同じくらいでしょうか」
「それ、若いって言わないのか?」
「花の精は、本来、青衣──いえ、しとやかな女性の役かと思われますが、女史の筋書きの為か、花旦──若く闊達な女性の役となっておりました。ただ残念ながら、過日、私が拝見した忘れかねる美しさの花の精よりは、美しくはございませんでしたね」
「……いや、それは忘れていいと思う。というか、私は忘れたい」
思いきり大きな溜息を吐きながら、陽子は頭を抱えた。
「大体、だ。どうせなら浩瀚にも着飾ってもらえたら自分だけじゃないと納得もいくし、もし皆の注意が逸れたらちょうどいいなと思ったのに。……何で揃った途端に、着飾らせようって熱意が倍増するんだ!?」
今更ながらに鬱憤を晴らすように強く言えば、そうですねと、浩瀚も珍しく少し困ったような顔で頷いた。
「主上が春の装いとあらば、一応後ろに控える私は色を落としてと思ったのですが。……今ひとつ、女官等の美意識にはそぐわなかったようでございますね」
「そうか? 祥瓊なんかは、後ろに控えるならいいけれど並び立つならもっととか、どうとか……。もういい加減疲れて、ろくに聞いてなかったから何とも言えないが。というより、浩瀚はあんな状況に巻き込まれて、よく平気だったな」
と、陽子は、目の前の男が、女官達の囀る中でもいつもの落ち着いた表情を全く変えず、一刻で相応な装束を整えるかこのまま諦めるかのどちらかを選択せよと言い切ったのを思い出し、もう一つ溜息を落とした。そのせいで、殆ど自棄になったような女官達に全身もう一度総取り替えされたのだが、そちらの記憶は思い出したくない。
もう勘弁してほしいと呟くと、浩瀚が「はい」と頷いた。
「私も勘弁してほしく思いますので、この次がありましたら、どうぞ主上のみでお願い致します」
「あ、狡いぞ。一人で逃げるなんて。そもそも平然としてたじゃないか」
「私は長い物に巻かれる性分でございますので」
「…………嘘つきめ」
しらっと言われ、陽子は思わず半眼で睨んだ。
「おや、左様でございますか?」
「うん。困ったものだ。私の冢宰がこんなに嘘つきだなんて」
「そうですか。……では、どうすればお許しいただけますか?」
と、わざとらしいほど恭しく浩瀚に聞かれ、そうだなと陽子は考えるふりをすると、一つ頷いた。
「桜餅をもう一つ。それで許そう」
美味しかったからと言えば、浩瀚はくすりと笑って「畏まりました」と頭を下げた。
「しかし、これでは賄でございますね」
「私相手だったら、金より効くな。もっとも、見返りは……そうだな。枝垂れ桜とかだが?」
「私もその方が嬉しゅうございますが」
言われ、陽子は「物好きめ」と肩を竦めた。
「はい、そうでございましょうね」
と、あっさりと頷きながら、浩瀚は桜餅をもう一つ、陽子の小皿へと盛りつけた。
「物好きな王の、冢宰にございますので」
「…………違いない」
くすりと陽子は笑う。
向かい合う卓の上。
開ききる時を待つ紅の桜花もまた、ふっくら微笑った。