桜 花 歌
桜蓮さま
2011/04/21(Thu) 22:22 No.593
雁国は凌雲山の頂に広がる玄英宮。
その広い敷地内には、大小五十を越す園林・庭院があると言われている。
今、その中の一つを前に、陽子は佇んでいた。
濃淡様々な薄紅色に彩られた景色に、心が弾む。
気付けば、懐かしい歌を口ずさんでいた。
「――気に入ったか?」
背後から朗とした声で問われ、陽子は欄干に手を添えたまま振り返った。
「はい。――今日はお招きいただき、ありがとうございました」
『玄英宮の『桜苑』が満開だ。花見に来い』
飛来した鸞がそう告げたのは、二日前。
秋の堤防工事の件で頭を悩ませていた陽子は国を空けるのを渋ったが、主が煮詰まっているのを察した側近らに勧められ、雁の招待を受ける事となった。
だが今は、来て良かったと心から思う。
「随分色々な桜があるのですね。…こちらの世界にこんなに桜の種類があるとは思わなかった」
「いや、殆どは蓬莱のものだ」
陽子の隣に並んだ尚隆は、欄干の上にまで伸びた桜の枝をつまんだ。
「一時期、六太があちらに行く度に色々持って帰ってきてな」
「六太君が?」
意外な思いで、陽子は少し離れた小卓で景麒と楽しそうに話している六太を見やった。
彼なら、桜より向日葵のような明るくはっきりとした花を好みそうだと思ったからだ。
「似合わん事に、桜が好きなようでな。持ち帰ってきては、手を入れてなかったこの辺りにどんどん植えていったものだから、気付いたらこの有様だ。後から庭師が体裁を整えるのに苦労していたな」
桜を無造作に植え、『あと、よろしくな!』と駆け去っていく六太と、困惑した表情でそれを見送る庭師という情景が目に浮かび、陽子は思わず笑ってしまった。
「陽子、何笑ってるんだ?」
ちょうどその時、当人が景麒と共に傍へとやって来た。
「陽子に、この桜苑の成り立ちを説明しておったのだ。お前が無闇やたらと蓬莱から持ち帰った結果だとな」
「んだよ、その俺のワガママみたいな言い方は!途中から『面白いからもっと持って来い』って、けしかけたのは誰だよ!」
「さあ。知らんな」
喧嘩しているのか遊んでいるのか分からない雁の主従の掛け合いを、陽子は笑いながら宥めた。
「どちらにしても、そのお蔭でこんな素晴らしい景色が見れました。本当に…そう、まるで歌に出てくるような景色だ」
桜の苑に向けて発せられた最後の一言は、呟きに近かった。
「……主上。それはどんな歌ですか?」
黙ってやり取りを聞いていた景麒の思わぬ問いかけに、陽子は驚いて軽く目を見張った。
「ああ……蓬莱で子供の頃に教わった童謡だ。桜が見渡す限り花盛りを迎えている、という内容なんだが」
「あ、それどっかで聞いたことある!俺達の居た頃には無かったけど」
――陽子、歌ってみてよ。
六太に無邪気な笑顔で勧められ、陽子は慌てて首を振った。
「私は音痴なので……」
「さて。先刻聞いた限りでは、そうでもなかったが?」
「えっ…延王!」
思わず顔が熱くなる。
何という事だ。
さっき口ずさんでいたのを、まさか聞かれていたとは。
「なぁ陽子。ここには今、俺達しかいない。聞かせてくれよ」
少年の麒麟に重ねて懇願され、その主にも目で促され。
陽子はしばし躊躇った後、「本当に下手ですからね」と念を押し、息を整えた。
『さくら さくら
野山も里も
見わたす限り』
少女にしては少し低めの声が、春の空気を震わせる。
風に乗った桜の花びらが、凛と背を伸ばして歌う陽子の周りで、舞うように翻った。
それはまるで、一幅の画のような光景だった。
『かすみか雲か
朝日ににおう
さくら さくら
花ざかり……』
桜の苑に溶けるように陽子の声が消えると、組んでいた腕を解き尚隆は笑んだ。
「雅な歌だな……。耳にも目にも、福を得た」
「ほんと。陽子、歌上手いじゃん」
「いえ、そんな事は……」
恥じらう陽子に対し、景麒も六太に賛同するように頷いている。
「良いものを聞かせてもらった礼だ。景王には何か一つ、望みのものを差し上げよう。何がいい?」
尚隆の申し出に、陽子は目を見張った。
「そんな、大袈裟です!」
「いんや。恐れ多くも景王に歌姫の真似事をさせちまったんだからな。相応だろ?」
「ねだったのはお前だがな」
「うっせぇ!尚隆、お前だって楽しんでたじゃねぇか!」
「確かにな。まぁそういう訳だ、陽子。何がいい?歩揺(かんざし)でも連珠(くびかざり)でも絹でも戈剣(ぶき)でも、好きなものをやるぞ」
「そうそう。遠慮なく言ってくれよ」
陽子は、大らかに笑む雁の主従を見つめた。
笑顔の奥に垣間見える、促すような気配。
彼らは知っているのだ。
陽子が今、何を一番に欲しがっているのか。
「…では、資金をお借りしたく」
「主上!?」
驚く景麒を無視し、陽子は真っ直ぐ二人を見て続けた。
「秋の堤防工事に、是非とも雁のお力添えを頂きたい」
途端に、尚隆の笑声が響いた。
「これはまた……。桜の中で、景王を歌姫に仕立てた贅沢の代価は高いな」
「ほら、言ったろ。陽子なら絶対飾り物よりそっちを欲しがるって」
「俺も分かっていたがな。――それにしても陽子、お前もとんと無粋な奴だな」
――だがその分、王らしくなった。
笑みの残る声でそう言われ、陽子は知らず入っていた肩の力を抜いて、微笑んだ。
「……これも、先達と仰ぐ隣国の王の影響かもしれません」
「言うじゃないか。だが、俺から金を借りると、利子が高いぞ」
「おい尚隆。陽子相手に、なに商売っ気出してんだよ」
「まあ聞け。陽子、俺の利子は『桜』だ」
「桜…ですか?」
目を見張った陽子に、尚隆は、ああ、と頷いた。
「いい加減、雁の桜は飽いたのでな。今度は慶の桜を愛でてみたい。利子の代わりに、慶に桜を植えよ。そして、いつか我らを花見に呼んでくれ」
それは慶の復興を願う、雁なりの発破であり、配慮だった。
「慶に桜を……」
延王の言葉を繰り返し、陽子は花盛りの苑に視線を移した。
薄紅色に染まった慶の山肌。
笑顔でそれに眺め入る慶の民。
彼らに交じって、雁の主従や景麒と共に見上げる自分。
桜苑を通して脳裏に浮かんだ鮮やかな未来図に、陽子は目を細めた。
今の慶にはまだ、桜を愛でる余裕は無い。
だがいつか。
雁への借りを返せる頃には、きっと。
「はい。……いつか必ず、お二人を慶の花見に」
翡翠の瞳に力を込め頷いた少女に、尚隆は笑んだ。
「ああ。待っているぞ」
王達の約定を言祝ぐように、さわり、と、桜の木々が揺れた。
<終>