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緋に染まる 3

雛さま

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2011/04/26(Tue) 15:21 No.670

 礼を取って朱衡が下がった後、堂室には尚隆一人が取り残された。堂室の中を満たすのはただ静寂のみで、ひっそりとしたそこに月煌華の散りゆく様は確かに風情があり、思わず酒肴を求めてしまうほどだ。しかし、今晩の席に限っては酒の用意はないだろうと尚隆は思う。

 朱衡は何も花を愛でるために景王との席を設けたわけではない。花を愛でて心を安らげるというのはあくまでもある目的の為の一つの手段であって、それそのものが目的というわけではなかった。

 尚隆は堂室の中に視線を巡らせ、内部中央に鎮座した卓子の上を眺めた。丹精を込めて作られたのであろう料理が所狭しと並ぶ中、用意されていたのは茶器一式だ。

「……だろうな」

 尚隆は苦笑して椅子に腰を下ろす。見れば、青白磁の茶杯には紅の華が艶やかに染め付けてあり、自分の前にはついぞ出てきたことのないような華やかさを見せ付けていた。対の急須も丸みを帯びた、いかにも女が好き好みそうな外形をしており、その細かい心配りには尚隆も感嘆するばかりだ。

「その心配りが陽子に伝わればよいのだが」

 そう言ってはみるものの、その余裕が陽子にはないだろうと小さく息を吐く。料理も、これだけ用意して一体どれだけのものに手をつけるのかと、ついついそんなことを考えた。

「いかんな……」

 尚隆は呟く。

 いつからだろうか。尚隆は最悪を想定してそれに対処することに慣れすぎてしまっているのだ。だから尚隆が考えるのはいつだって最悪の事態で、今もまたその頭は既に最悪に備えようとしていた。そうならないことを望んではいるが、こういう時、そうしなければならない事態が多いことを尚隆は憎らしく思う。思ってみても仕方のないことではあったが、自分が王である限りこれはやむを得ないことなのだと思って諦めるよりほかない。

「せっかくの花が台無しだな……」

 尚隆は言って框窓の向こうを仰ぐ。そこには佇む月煌華とそれを照らす月があり、今のこの風情のある中にあっては、ただその情緒に身を委ねたいと願うばかりで、尚隆は黙って散りゆく花弁を目で追った。

 舞い散る花弁は白く光りながら夜闇を舞い、框窓から堂室の中に入って卓子の上を横切っていく。それを目で追い続ければ、ふと卓子の上に置かれた燭台が目に止まった。

 こんなところにまで気配りがされていることに尚隆はただ笑んだが、鋼で作られた燭台は艶やかさを見せる茶器とは対照的に黒色で、落ち着いた趣を見せている。手のひら大の皿には波打つような模様が透かし彫りされており、短めの脚が三本ほど付いていた。立てられている蝋燭は大き過ぎず、ほのかな明かりは皿の透かし彫りに光を落として、卓子の上に見事な緋色の絵を描き出している。

 全く手が込んでいると、尚隆は内心感心しつつ蝋燭の火を見つめる。

 確かに、燭台の小さな火は心を落ち着けるにはいいかもしれないと、そんなことを思いながら緩やかな風に火先が揺れるのを見ていた。そうしていると堂室に近付いてくる足音が聞こえて、尚隆は来たかと框窓の方を見やる。

 近付いてくる足音は二つだ。一つは框窓手前で立ち止まり、もう一方に「こちらでお待ちです」と小さく告げると、うやうやしく去っていく。そして、もう一つは促されるままに框窓に向かって歩を進めていたが、しかしその手前でやおらその動きを止めてしまった。

 尚隆は框窓の前で庭院を見やって立ちつくすその後姿を見る。背に流された緋色の髪は、それが陽子であることを尚隆に教えていた。

 陽子はただ一心に庭院に目をやり、心を奪われたように立ちすくんでいた。その目が捉えるものは、訊かずとも明らかだろう。

「中に入ってはどうだ?」

 尚隆は薄く笑んで言う。声を掛けられた方は、行き成り掛かった声に驚いたようだった。小さく揺れた肩を癖のある緋色の髪が滑り落ち、振り向いた顔は尚隆を捉えて息を呑んだように強張る。

「延王……」

 呟いて陽子は佇まいを正したが、尚隆はただ笑うに止めた。

「そんなに気を張らずともよいぞ。ただ共に夕餉を食べようというだけのことだからな」

 言って尚隆が卓子の上に視線を投げれば、陽子も倣ったようにそうして微かに眉を顰めた。何を思っているのかその足は歩み出さず、尚隆は溜息をつきそうになってそれをぐっと押し止める。

「うちの家人は皆口煩くてな。面倒だとは思うが、とりあえず座ってはどうだ?食べぬと言うのなら茶ぐらいつき合え」

 若干の沈黙が流れたがそれは僅かだった。堂室の中に入ってきた陽子は、失礼しますと腰を下ろす。そうして落ち着かないような面持ちで視線を彷徨わせた。

「こういう場は落ち着かぬか?」

 言って尚隆が急須を取り上げれば、陽子は慌てたように手を伸ばす。それは軽く手で押し止め、茶杯を取って注ぐと、卓子の向かい側の陽子に向かって差し出し、その前に小さく音を響かせて置いた。

「食事が喉を通らずとも、茶ぐらいは飲めるだろう」

 陽子はただ困ったように黙った。それでも差し出された茶杯を持ち上げて口を付けるような仕草は見せたが、それは社交辞令的なものに過ぎないだろう。

 真面目ではあるが、と尚隆は思う。しかし今はその真面目さが難だった。

「……やはり食べる気はせぬか。無理に食べろとは言わんが、これでも膳を用意する者が景王に出すものだと丹精込めて作っている。一口ぐらい食べてはみんか?」

「……悪いとは思っています。だけど……、喉を通らないんです」

「悪いと思うのならば食べてやれ。その量が僅かだとしても、作った者はそれで喜ぶ」

「一口だけ箸をつけるなら、いっそのこと食べない方がいいです。作った方も形程度に食べられては、きっと嬉しくはないと思います」

 陽子は眉根を寄せ、どことなく辛そうにしながら言った。尚隆は目を細めてその様を見る。

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2011/04/26(Tue) 15:23 No.671

 陽子には陽子なりに考えていることがある。そしてそれを簡単に曲げないのは、良く言えば剛直、悪く言えば頑固と言ったところだろうか。しかし、だからこそ食べれもしないものには中途半端に手をつけたりしないし、王だと言われて簡単にその道を選択したりもしないのかもしれない。

 これは手強いと、尚隆は内心笑んだ。今が笑っている場合ではないことは重々承知していたが、思わず笑みを零してしまうほどに尚隆は嬉かったのかもしれない。

 国を治める義務を果たさず倭に帰ればいずれは命を落とす。そう言われれば、大抵の者ならばとりあえず王になることを選ぶだろう。普通なら、死ぬと言われれば恐くもなるし、その命を惜しみたくなるかもしれない。しかし、とりあえずで軽はずみな選択をするような者では期待など出来るはずもないのだ。

 陽子はそれをしなかった。それが尚隆には好ましく思えた。

「では、しっかりと食べてやるのだな。食べねば腹が空くぞ」

「一日食べないからといって、人は死にません」

 言われて尚隆は思わず苦笑する。それと同じ事を自分も朱衡に言ったなと、陽子の強張った顔に向かって笑みを向けた。

 じっと、小さな音を立てたのは燭台の蝋燭で、小さな炎が一瞬うねり、蝋燭の側面を融けた蝋が伝っていく。流れた沈黙は常とは異色の空気をまとい、尚隆の浮かべた笑みは本人も知らないうちに深まって、尚隆の方に向けられていた陽子の視線と長く絡んだ。

 どれくらいそうしていたのか。尚隆と陽子の間を白く光る一ひらの花弁が舞うようにかすめていき、先にはっとした表情を見せたのは陽子だった。その瞬間、どちらかといえば強気であった陽子の表情は、次第に戸惑いの色に染められていく。

「とにかく今は食べておけ」

 沈黙を破って発した尚隆の声は、自分でも驚くほどの柔らかみを帯びた。その穏やかな声音に、陽子が瞳を小さく揺らしたので、尚隆は顔に乗った笑みを、早々に常の鷹揚に構えた態度で覆い隠す。

「……だけど、今は本当に食べる気が起きないんです」

 陽子はいよいよ困ったように顔を俯けてしまった。

 尚隆は目を伏せて溜息をつく。合わせたように緩い風が吹き、何となく視線を投げれば、舞う白い花弁が漆黒の空でちらちらと光を投げかけていた。

「ならば無理にでも詰め込むのだな。王が神であるといっても、食べねば流石に動けなくなるぞ」

「……はい」

 陽子は小さく返事を返す。しかしそれ以上の言葉は出てこない。

「お前が答えを決めかねていることはわかっている。何の前触れもなく一国を任されれば、すぐに答えを出せずともしかたなかろう。しかも故郷には帰れぬとくれば、その迷いはいっそう深くもなる。その苦悩は誰にも推し量ることなどできまい。しかし、だからといって生きることをやめるな。お前があちらに帰ろうがこちらで王になろうが、いざという時に体が動かねば何もできぬ」

 尚隆は言って陽子を鋭く見やった。

 陽子の顔は伏せられたままで、その表情を伺うことは難しい。たぶん泣いてなどはいないだろうが、短く揃えられた前髪が陽子の目許に濃い影を落とし、気を張った表情から一転、その顔を彩る気鬱さに拍車を掛けていた。

「……わかっているんです」

 顔を俯けたまま、陽子は小さな声で息を吐き出すように言う。それに合わせたように開け放たれた堂室の框窓からは弱々しい風が吹き込み、陽子の赤い髪を緩やかに揺らした。

 まるで風に煽られる燭台の炎の火先のようだ。尚隆は流れるように揺れた陽子の髪を見てそう思う。

 しっかりと立つことが出来ず、風に煽られて成すがままの蝋燭が灯す小さな火。それは、軽はずみな選択が出来ない真面目さゆえに迷い揺れる今の陽子そのものだ。しかし、尚隆が初めて陽子の姿を目にした時、その風貌はあまりにも鮮烈だった。これぞ王だと、そう思ったのは世事でも何でもなく、それは尚隆が最初に抱いた嘘偽りのない率直な感想だ。だが、今の陽子は明らかに揺れている。

 故郷に帰るための方法を探すために遥々雁までやってきて、しかしその結果は王になれと言われる。ならばその心が揺れるのも仕方ないだろうが、あまりにも惜しいと、尚隆はそう思わずにはいられない。

 尚隆は小さく息を吐き出すと、ついと視線を下げる。分かっているといいながらも一向に目の前の膳に手をつけようとしない陽子に、どうしたものかと内心頭を抱えた。

「わかっていてもどうにもならぬ、か……」

 表向きはあくまで鷹揚な態度を貫き、顔には緩やかな笑みを乗せて尚隆は言う。しかしその実、尚隆は次に発する言葉を考えあぐねていた。

 本当は、そうやって慎重に言葉を探ってみたところで何の意味もないのかもしれない。何を言ってみたところで陽子の心が折れることなんてないだろうと、尚隆はそう思っている。そもそも、ここで心が折れてしまうような者に天命が下ることなどないだろう。ならば慎重になって言葉を探るよりも、言うべきことを言った方がいい。

 今尚隆が慎重になるのは、ただただ陽子の心の葛藤を思ってのことに過ぎなかった。

 その心が不安定に揺れる今だからこそ、一歩間違えれば陽子は故国に帰ることを望んでしまうかもしれない。だからこそ尚隆に間違いは許されないのだ。

 尚隆にとって陽子は五百年待ち望んだ、自分と同じ胎果の王だ。陽子をここで失えば、尚隆にとってその落胆はきっと深いものとなるだろう。

 揺れて苦しむその心を少しでも軽くしてやりたいと思うのは、陽子が慶の王であり自身が雁の王であることを考えれば、ある意味間違いだったが、それでも尚隆は初めて会った時のような鮮烈さを陽子に取り戻してやりたいと思う。

 風に煽られ不安定に揺れる蝋燭の火も、澄んだ光輝を放つ炎心は案外しっかりとしているものだ。陽子の持つ鮮烈さも、実際はその内に隠れているだけで、なくなってしまったわけではない。

背景画像 瑠璃さま
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