咲かぬ花
饒筆さま
2011/05/15(Sun) 17:45 No.938
慶東国冢宰の執務室には、階上に小部屋がある。
屋根裏に近く手狭なその空間を、歴代の冢宰がどのように使用していたのかは定かでない。だが、浩瀚は、出入り口に呪をかけて余人が立ち入らぬようにし、休憩所や仮眠室として利用していた。あまりにも多忙なため、しばしば官邸へ帰れないのだ。
当然、その極めて私的な部屋を訪れる者はいない――筈なのだが、まったく頓着せずに入り込む人物がひとり居る。
パタパタと軽い足音が階段を上る。「浩瀚、いる〜?」
彼の主君、景王陽子である。
無論、陽子だって最初から馴れ馴れしかった訳ではない。正直言って、当初は近づきたくもなかった。だけど。何と言うか――そう、蓬莱での高校生活に例えるなら。
恐ろしく厳しい数学教師が居て、しばらく無難な距離を置いて接していたのだが、やむを得ぬ急用があって仕方なく数学準備室に顔を出したところ、意外と気さくに迎えてくれて、拍子抜けして。肩の力が抜けた彼の素顔を垣間見るうちに、だんだん居心地が良くなって。なんとなく居つくようになっていた。そんな感じ。
この部屋に居る浩瀚は、ぼんやり煙草をふかしていたり、政務と関係の無い書を読んでいたり、気が向けば陽子に碁や貴人の賭けごとを教えてくれたりする。(イカサマのやり方とその見抜き方を) くだらない世間話や金波宮の内輪話も、なんだか実践的な講義に聞こえるのが不思議だ。
それに、陽子も浩瀚も、普段は不特定多数の人間に囲まれて生活している。だから、こういう他者のいない場所があるとホッとする。それもまた、ここへ来たくなる理由かもしれなかった。
「主上の来訪はいつも賑やかですね」
浩瀚は拱手しながら待っていた。その苦笑に、陽子は胸を張って答える。
「私が元気なら、慶国は安泰だろ?」
そして勧められた長椅子に腰かけた。
浩瀚は用件を問わない。陽子は、急を要する用があるのなら真っ先に口にするだろうし、そうでなければダラダラ時間を潰してゆくだけだから。
今日は後者らしい。陽子はまず卓上の手紙に興味を示した。
「えらく余白の多い手紙だな」
良質の紙に、おおらかだが整った文字。だが、その内容はたったの二行。
浩瀚が破顔した。
「蕃生から今年も返信がまいりました」
「ああ、桜の季節しか捕まらないんだったな。で、どうだった? またフラれた?」
「ええ、あれも意固地ですから。地官の要職を用意して待っているのですが、さっぱり興味が無いようで。しかも今年は・・・ご覧になりますか?」
「なに?」
短い手紙にサッと目を走らせる。そして陽子も満面に嬉色を浮かべた。
「へえ! 良かったな!」
それは、間違いなく喜ばしい報告だった。
麦州産県の支松。
静かな通りの一角に、その身を焼かれ死んだ大樹が一本残っている。昔は、それは見事な花を咲かせていたのにな。
蕃生は今にも落ちそうな枝を見上げ、黙って手を挙げた。
――よお。今年も『花見』に来たぜ。
足元の小さな石碑にはこう記してある。旧松塾、跡地。
ここはかつて彼の学び舎だった。だが、狼藉者どもの焼き討ちに遭い、多くの教師や学友たちが死んだ。二百年を経たと伝わる中庭の桜も、今はこのとおり。松塾自体は街外れに再建されたが、やっぱり蕃生はここへ足が向いてしまう。
白い花束と酒を供える。視線を感じた。
「居るんだろう? 出てこいよ」
声をかければ、隣家の塀の陰から痩身の男が現れた。行商人の格好をしているが、目つきが鋭い。「蕃生殿。主より文を預かっております」
蕃生がにやりと笑った。
「ご苦労さま。おまえも、おまえの主も毎年律儀だな。だが、いくら誘われたって、俺はもう宮仕えなんざしねえぞ」
それでも、今をときめく旧友が自分のことを忘れずにいてくれることが嬉しい。
手紙を開く。清冽な流れのような文字を読むうちに、懐かしい光景が広がった。
大樹から炭が剥がれ、みるみる枝を伸ばして空いっぱいの花をつける。松塾の年中行事となっていた桜花の宴には、錚々たる先達たちが顔を揃えていた。著名な詩人、憧れの賢人、まさに雲上人たる高級官吏、そして伝説の飛仙も。あちらこちらで美酒と議論が交わされ、目眩がするほど壮観だった。
にきび面の生意気盛りだった俺は、その場の雰囲気に酔っていた。近しい先輩たちに議論をふっかけたり、大言壮語を吐いて一人悦に入っていた。そしてついに見兼ねたのだろう。まだあどけない童顔のあいつに釘を刺された。
「蕃生。おまえの理想を実現するためには、金波宮の官吏を総入れ替えしなければならないぞ。兎一匹殺せないおまえに、そんな改革ができるのか」
畜生。図星だよ。その後の俺の顛末を、全て見透かした一言だぜ。
俺たちは、時期は違うが共に大学を出て国官となった。敵も邪魔者も蹴散らし破竹の勢いで階を上るあいつに比べ、俺はぱっとしなかった。何事にも理想と意義を求める俺は鼻つまみ者だったし、さりとて、周囲を屈服させて自分の理を通すほどの強さは持ち合わせていなかったからだ。自分のできる範囲で、自分なりの理想を形にするのが精いっぱい。
つまらぬ濡れ衣を着せられたのも、俺が煮え切らなかったせいだろうよ。あいつは本気で怒ってくれたが、俺は金波宮での務めにすっかり嫌気がさしていたから、半ば清々しい気分で市井へ下りた。
なあ浩瀚。俺は今、侠客になって本当に良かったと思っている。民の中に在って、民と共に国を興すのは無上の喜びだ。兎一匹殺せぬ俺にもできる改革が、ここにある。
そりゃあ、辛く惨い時代もあった。むしろそっちの方が長かった。俺は皆と共に泣き、不条理に怒り、天や官を恨んだ。だが、今は――よく頑張っているよな、今の女王もおまえも。
今までの俺はたいした花を咲かせられなかったが、これからは違うぜ。雲上のあいつにも見えるくらい、でっかい花を咲かせてやる。
友の手紙をくるくる丸める。
痩身の男が新しい紙と筆を差し出した。ありがとさん。
さて何を書くか・・・そうだ、大事件があった。ふふ、今年は俺の勝ちだ。
あっと言う間に書きつけ、男に返す。
――卵果が実った。来年の今頃は、俺も父親だ。
おまえも、花くらい咲かせたらどうだ?
そしてもう一度、死んだ桜を眺める。
また来るよ。俺は絶対に忘れない。ああ今年も、楽しい『花見』だったぜ。
「年甲斐もなく、と言うと蕃生に殴られそうですが、一言言ってやりたいですね。この、なにやら勝ち誇った感じが不愉快で」
「確かに」
陽子がくすくす笑う。浩瀚も先程から飾らない微笑が絶えない。憎まれ口を叩きながらも、本心では旧友の幸福を喜んでいるのだろう。ふと不安になった。
「浩瀚も子供が欲しいと思う?」
「さて・・・敢えて望みませんね。為すべきことが多すぎて、私事にかまけている暇がありませんから。それに、実の子供ではありませんが、私の里家には沢山の子供たちがおりますし」
「そうか。おまえは里家を運営していたな」
浩瀚は、麦侯時代に私費で特別な里家を設立した。重度の障害をもっていたり、特殊な事情があったりして、一般の里家では預かりきれない子供たちの受け皿を作ったのだ。それは今も堯天に場所を移して運営されている。
――まだまだ、慶国の社会福祉は篤志家の善意に頼っているからな。社会的弱者に手厚い保障を与える為には、もっと国庫を豊かにしないと。
真剣に考え込む陽子を眺め、浩瀚が微笑を深めた。
陽子は知らない。「特殊な事情を持つ」子供たちの中には、千里眼や発火能力者など、希有な能力を持つ子たちが集められていることを。そしてその子らが、一様に養父に心酔していることも。彼女は知らなくてもよいことだ。(つくづく、タダでは動かぬ男である)
浩瀚はさり気なく話題を戻す。
「蕃生は子煩悩な父親になると思いますよ。息子を肩車して畑に向かう、そんな農夫の背中を見て、あれが俺の夢だと嘆息していましたから」
「ふうん。肩車するのが夢ね・・・」
十六歳にして神籍に入ってしまい、もはや結婚も子育てもできない陽子には叶わぬ夢だ。というか、自分が親になるなんて想像もできない。まだ恋愛さえ成就していないのだから、それこそ遠い彼方の夢に思える。
「浩瀚にはそんな夢があるか?」
「私の夢ですか?」
「そう。国とか政事じゃなくて、個人的な夢」
「そうですね・・・」
軽く首を傾げる浩瀚を、陽子が興味深く見つめる。
そして浩瀚も、臆することなく彼の懐へ跳び込んでくる子猫を眺めた。はて。どのような回答を望んでおられるのやら。
主君だと、至高の御方だとわかっているのだが、この無邪気な顔を見ていると、どうもからかって弄びたくなる。それは猫をじゃらす愉悦にも似て、常に抗いがたい誘惑を伴っている。
「私の夢は、慶国が繁栄を極め、主上の朝も盤石になって・・・『もはやおまえは要らぬ』とお払い箱になることですかね」
「なに?!」
陽子が絶句した。
「そうすれば、海の見える草庵に隠居して、悠々自適の生活を送ることができます。仕事に追いまわされることも無く、好きなだけ書に没頭できますよ。ああ、本当に夢のような暮らしですね」
にっこり。浩瀚があまりにも嬉しそうに笑うものだから、陽子は無性に腹が立った。
「おまえは、私を見捨てて勝手に隠居するつもりか! 私なんか、死ぬまで王を引退できないんだぞ!」
「私が主上を見捨てるのではありません。主上が私を不要となさるときが来るだろうと申し上げているのです」
「そんなっ・・・そんなときが来るもんか!」
「嬉しいお言葉ですね。しかし、いつかは来てもらわなければ困ります。私は、十年で朝を整え、二十年で国全体を整えて献上するとお約束しました。主上にとって、私はご自分の御力で慶国を治めるようになるまでの介助役に過ぎません。また、後進を育てるのも管理職の責務ですから、老害になる前に道を譲るつもりでおりますよ」
またまた、にっこり。何がそんなに嬉しいんだ! 身勝手に、ひとりで、私の前から去ることが夢だなんて・・・絶対に嫌だ。たとえ天が許しても、この私が許さない!
陽子の中で、何かがキレた。
静かに立ち上がり、ゆっくり浩瀚に歩み寄る。
「・・・わかった。あと五十年くらいしたら、海の見える住処を用意してやる」
「おや、下賜いただけるのですか。ありがたき幸せにございます」
余裕の笑みは消えない。フン、笑っていられるのも今のうちだ。
「だが、見えるのは青海でも虚海でもないぞ。雲海で我慢しろ」
「は?」
「ちなみに場所は後宮だ」
「・・・」
さすがの浩瀚も怪訝な顔になる。陽子は彼の胸倉を掴み、ぐっと顔を寄せて凄んだ。
「私は一生、おまえを手放したりしない! 冢宰を退きたいなら、替わりに大公を命じてやるから、覚悟しろ!」
完全に据わった緑の瞳と、呆気にとられた琥珀の瞳が互いを映しあう。
甘く緊迫した沈黙が、蝸牛のように過ぎてゆく。
ふ、と浩瀚に悪戯な笑みが戻った。
「それは身に余る栄誉でございますね」
「冗談ではないぞ。私は本気・・・ちょっ、おまえ! な・・・」
さて。お邪魔虫は退散するといたしましょう。
咲かぬ花など無いのです。
たとえ目には見えずとも。今は時にあらずとも。心の中に必ず、いつか。
花が、咲く。
麦州産県の死した桜。いずこから運ばれたのか、その黒ずんだ根元にひとひらの花弁が寄り添っていた。
<了>