○○に落ちた日
饒筆さま
2011/05/22(Sun) 11:24 No.1054
侍官は焦っていた。和州候がいない!
何事も無く視察を終え、ついさっきまで華車の側にいたはずなのに。まったくコドモじゃないのだから、ちょっと目を離した隙に居なくなるなんて・・・また捨て猫でも見つけたのかしら。
現在の和州候は温情で知られる。猫に限らず、犬でも牛でも人間でも、とにかく弱きもの、助けを求めるものを一秒たりとも放っておけない御方なのだ。人としては素晴らしいと思うが、部下としては「限度があるだろう!」と怒鳴りたいときがある。
果たして、その御方は民家の裏で三毛猫を抱き上げながら佇んでいた。
「候!」
声をかけると、候は穏やかな微笑で振り返り、「シッ」と口の前に指を立てた。
まだ若木だろうか、ひょろりと細い桜の下で、幼い少年と少女が微笑み合っている。少年が少女の髪にそっと花枝を挿せば、少女の頬が紅に染まった。悪童どもが二人をからかい、耳まで赤面した少年が拳を振り上げて追いかける。
「微笑ましいですね」
「ああ」
我が事のように嬉しそうな候がぽろりと漏らした。
「私もその昔、彼のように花枝を贈ったことがあるんだ」
髪に挿した訳ではないけれどな。厳めしい相好を崩し、鼻の横を掻いて照れる。
何ソレ甘酸っぱい初恋話ですか〜! 女性侍官の野次馬根性が首を擡げた。この御方がご自分のことを語るなんて珍しい。興味あるある〜!
「まあ素敵ですね。どのような方に贈られたのですか」
「あの頃はまだ十二、三歳くらいだったか。ひどく大人びて冷淡に振舞っていたが、情熱的な激しい瞳が印象的だったな」
まあ将来イイ女になりそうなお嬢さんだこと。よし、今晩の女子会のネタにするわよ。
「きっと麗しい方だったのでしょうね。あの、もう少し御伺いしても宜しいですか。その方とは・・・どうなったのです?」
候が苦笑した。
「どうも何も。『食えるものでも売れるものでもないから要らない』と突き返されたよ」
おいおい。御年頃の早乙女にしては、やけに現実的じゃないの。
「私の方が年上だったから、子供扱いされたと思って気に障ったのではないかな」
あ、それならあり得る〜。ちょっと気になる年上の彼にコドモ扱いされて、拗ねちゃったってワケね。なんて可愛い〜。
候は三毛猫の顎を撫で、愛おしげに笑った。
今は無き旧松塾の桜花の宴。裏方を手伝うように言われた柴望は、盆を持って宴席を巡っていた。中庭の隅でしょんぼり腰かけているあの子をみつけたのは、やはり気になって探していたからだろう。どうしたんだ、と話しかけると、
「友達をひどく傷つけてしまった」
自己嫌悪に満ちた小声が返って来た。なるほど、いつも一緒に居るにきび面の少年がいない。自分は心が欠けているから、相手を思い遣ることができないんだ、とあの子はさらに自分を責める。
心が欠けている。それはあの子が自分を評するのに、よく使う言葉だ。複雑なというより劣悪な家庭環境のせいで、あの子は愛情を知らずに育った。十で家を捨てなければ、自分は狂っていただろうとあの子は嗤う。笑ってそれを言うのだ――私の方が、胸が潰れる思いがする。
だから、そのとき盆に載せていた美しいひと枝を贈った。
「食えるものでも売れるものでもないから要らない」
「食べられないのも、売れないのも、当たり前だよ。だって、これは私の気持ちだからね。だから、ただ受け取ってくれればいい」
あの子は目を見張って――無言で花枝を受け取った。膝の上に載せて、しばし凝視する。それから私の眼をまっすぐ見上げた。
「ありがとう」
ああ。そのときだったのだろう。
この子には私がずっとついていてやらなければ、などと思い込んでしまったのは。
「なんだか、久しぶりに会いたくなってしまったな」
候が三毛猫を放す。
おおっ、なんと新展開ですか! 侍官が色めき立つ。浮ついた噂など、からきし無かった御方だ。初恋の人と再会したいなんて・・・これは特ダネだわ!
「浩瀚様は今頃、どうしておられるだろうか」
えええ――――――――――!!!!
どん引きした侍官の顔を見、和州候はきょとんとして首を傾げた。
<了>