下天の生
翠玉さま
2011/05/24(Tue) 00:43 No.1121
虚海を見下ろす山の中腹には海客が帰れぬ故郷を偲んで植えたとされる桜並木があった。
前日までは花冷えが続いて桜の花はなかなか咲き揃わずに蕾は枝の先で凍えていたが、その日は久しぶりの春らしい陽気に蕾は一気に花開き、雀や目白が桜の花を小さく揺らしていた。
小鳥の悪戯か、自らの意思なのか、咲いたばかりの花が萼(がく)ごと陽光を浴びて、くるくると回りながら舞い降り、殺風景な地面に花を添える。
微風に漂う、その様は天女の舞に誘われたようでもあり、雀や目白は天井の楽の音を囃しているようだった。
花が舞う桜は彼の知る限りでは、ここだけだった。そして桜のために奏でられている楽は海の彼方の曲、瀬戸の波の音、若と呼ぶ民の明るい声と顔・・・
〜思へば、此世は常の住処にあらず。草葉に置く白露、水に宿る月より猶あやし。
幸若舞の敦盛の一節を諳んじれば、鼓を打ち鳴らすは彼の父だった。
〜金谷に花を詠じ、栄花は先立て、無常の風に誘はるゝ。
シテとワキを舞うは二人の兄、それを見守る母までがいる。
〜南楼の月をもてあそぶ輩も、月に先立つて、有為の雲に隠れり。
さらに何故か帷湍と成笙までもが現れて兄達の舞を観ていた。
〜人間(じんかん)五十年、下天(げてん)の内を比ぶれば、夢幻のごとくなり。
一度生を受け、滅せぬ物のあるべきか…
そこで彼はくつくつと笑った。
「連中の分を考えれば下天の生(500年)すらまだ足りぬ」
彼の独白を桜だけが聞き届け、渦巻く風に舞った。