言花
饒筆さま
2013/04/18(Thu) 23:30 No.296
寂れた御堂、たった一本寄り添う木。たくさんの、たくさんの小塚。訪れる者もいない、「寂寥」を具現化したような墓地にも、春は訪れ、花は咲く。
「この木……桜だったのね」
鈴はその漆黒の瞳を細め、やや緑がかった真白の花々を見上げる。去年も咲いていたはずだが、まったく記憶にない――それどころではなかった。
明るい蒼穹へ伸びる花枝は柔らかな風に揺れ、はらはらと儚い夢を撒き散らす。
「ああそうだ」
虎嘯が応じた。大きな手桶をよいしょと置く。なみなみいっぱいに汲まれた水が、たぷんと溢れる。
「桜の花は散って飛ぶ、だから無縁塚にも花を手向けることができると言って、誰かが植えたんだと」
「そう……良い話ね」
鈴は微笑もうとして――口が曲がっただけで失敗した。
無縁。そう、身ひとつで流された鈴も永らく孤独だった。そのまま死んでいれば、誰の目にも留まらない塚がひとつ残るだけだった。その寂しさ、心細さは骨に沁みている。
だけど。
今は違う。私には大切な『縁者』がいる――共に闘い、支え合うことを誓った友や同志が。そして、寄る辺無い身を寄せ、互いの手を握り締めて一緒に歩いた子供が。
目前の小塚をじっと見下ろす。
――清秀。会いに来たわ。
あのときまだ真新しかった塚はもう乾ききって、それでもしょぼしょぼと雑草が生えている。ひときわ立派な蒲公英の金冠があの髪色を思い出させて、じわり。熱いものが込み上げてきた。
だめ。泣いちゃダメ。また叱られてしまう。
俯く鈴の肩に、力強い手が優しく乗った。
「鈴は此処に居ろよ。俺ぁぐるっと回って来る」
鈴が頷くのを見届け、虎嘯はまた手桶と酒瓶を抱えて歩き出す。その大きな背を横目で追えば、彼はほどなく一つの塚で足を止め、朗らかに微笑んで水をかけ始めた。
――やっと来たぜ。久しぶりですまんな。酒も飲むか? 毎日たまげることばかりだが、俺はなんとかやっている……
鈴は嘆息した。
虎嘯は凄い。此処には、彼が失った大切なひとびとが、暴虐に命を奪われ苦悶と無念の末に果てたひとびとがたくさん眠っているのに……微笑んでいられるなんて。きっと彼は心の芯まで強いのね。私にはとても笑顔なんか作れない。苦しくて切なくて、身を切る思いに涙が溢れるばかり。
言い訳のように語りかける。
「あのね清秀。昇紘の刑が執行されたの……あなたの仇、これでとれたかしら……」
言いながら、ついに泣いてしまった。
仇を討った、それがどうだと言うの? 私の気がすこし済んだだけ。たとえ昇紘が八つ裂きにされても、清秀の悲しみや苦しみは失せない。彼の笑顔はもう二度と戻ってこない。
「ごめんね……」
嗚咽を漏らし、繰り返す。ごめんねごめんね、無闇に連れ回した私が悪かったの。許してなんて言えないわ、でもせめて謝りたい。ごめんねごめんね本当にごめんね――
垂れて剥きだしたうなじを、春風が撫でてゆく。
頼り無く飛ばされた白い花片がひとつ、頬に貼り付いた。
――泣くな……
え? 鈴は顔をあげる。微かに聞こえた、この声は。
目前に落ちてきたひとひらに、掌を広げてみる。はらりと舞い降りたそれが肌に触れた途端、また声が弾けた。
――泣くなよ、鈴。
「花びらがしゃべった?!」
さらに風は駆け抜け、白い花びらは枝を離れて次々に飛来する。
――だから泣くなって。
――泣き虫だな、鈴は。
――嬉しいよ。
――来てくれて……
ひとひら、ひとひらが触れる度に、短い一言が聞こえる。間違いない、この声は。
「清秀!」
鈴はもっと花びらを捕まえようと、夢中になって手を伸ばす。
ぶわっ。散る桜花は吹雪となり、風は渦を巻いて白い柱が立つ。
――すず、鈴……!
花が名を呼ぶ。旋風の中に小柄な幻を見、鈴は満面の笑みを浮かべて両の腕を開く。おいで、おいで清秀。本当に会いたかったわ……!!
無数の花びらが鈴を目がけて襲いかかる。
「あぶねえ!!」
突如轟いた大音声。鈴はビクリと身を竦める。素早く駆けつける足音。太い腕が伸び、咄嗟に鈴を庇って抱き締める。
ざああっ……白い旋風が目の前で解けた。鈴は息を呑み、目を大きく開く。勢いを失った桜花の雨が、やけにゆっくり降り注ぐ。
――ああ……
――あーあ……
たくさんの花びらと同じ数の嘆息を浴びる。
やがて風が止み、静寂が戻れば。虎嘯は鈴の肩を掴み、ぐるりと回して正面から睨みつけた。
太い眉が跳ね上がる。
「鈴!逝った奴に同情するのはいい。いろいろ思い出して、話しかけてやるのはいい――でも、もっていかれちゃいけねえ!! 鈴はまだ、こっちで踏ん張らなきゃならねえんだ!」
お、怒っている……? 虎嘯の剣幕に、鈴は震える。留めようもなく涙が溢れ、頬を伝う。
「……なあ鈴。わかるな?」
それでも虎嘯はこちらを覗き込んで念を押す。その強い瞳に促され、震えながら泣きながら、鈴の顎がようやく下がった。堰が切れ、手で顔を覆って、わっと声をあげて泣きじゃくる。
肩を掴む手が離れ、優しくなった声が鈴を気遣った。
「泣きたいときは、泣けるだけ泣きゃあいいさ。でも、帰るときにゃ、笑って挨拶しなきゃならねえぞ、鈴。そうだろ? だってよ――此処のみんなは、また生まれる日までゆっくり休んでいるんだ。心配なんかかけられないじゃねえか。むしろ、今度生まれるときにゃ、もっといい場所にしておいてやるからよって胸張って言ってやろうぜ。な?」
――今度生まれる時には、もっといい場所にしておいてやるからよ。
虎嘯らしい、その一言が胸に沁みた。
そうか、その決意が虎嘯を強くしているのね……それなら、私も同じ。私も、陽子を助けて私に出来ることを頑張りたい。
だから――清秀、私はまだあなたの側には行けないわ。ごめんなさい。
激情が緩やかに去る。また項垂れた頭に、細い肩に、白い花が降りかかる。
――ごめん……
――こめん、鈴……
――呼ぶつもりはなかったんだ。
――でも寂しかった……
――もう二度と鈴は来ないと思って。
――寂しかった。
――ひとりは嫌だ……
鈴が決然と泣きっ面を上げた。濡れた頬が光る。もの言う桜に向きあって、はっきりと告げる。
「安心して、清秀」
虎嘯が目を剥いた。
「私、また来るわ。必ず来るわ。毎年来るわ。だってあなたは私の弟だもの……家族だもの。絶対に忘れない。ひとりで放っておいたりしないわ……ね、だから安心して」
ざわざわざわ。風も無いのに桜樹が震える。鈴が差し伸べた掌に、白い言花が舞い落ちる。
――ありがとう……
ほおお。大きな感嘆が聞こえ、振り返れば、虎嘯のいつもの笑顔があった。
「鈴は優しいな」
ううん。鈴は頭を振る。
「私は……とても弱いだけ」
だから手放せないの、何もかも。泣いて泣いて後悔して、それでもまた縋ってしまうの、ささやかな思い出に。だから大丈夫よ、清秀、私はあなたのことを忘れられっこないわ。いつまでも憶えている。何度でも会いに来る。呆れるほど通ってあげる――いつかあなたが全てを昇華して、新しい旅に出るその日まで。あなたはひとりじゃないの。此処でゆっくり、私を待っていて。
そして袖で顔を拭い始めた鈴を見、虎嘯は慌てて袷をまさぐり、きちんと畳んだ真新しい手巾を取り出した。
「ほらよ」
手巾を差し出され、鈴が面喰らって声を上げる。
「ええっ?! 虎嘯、こんな手巾持っていたの?!」
「あたりめえだ、俺だって――と言いたいところだが。実は夕暉に持たされたんだ、絶対に必要だからって」
「……夕暉には敵わないわねえ」
「そうだろう、そうだろう。あいつは本当に出来が違うんだ」
なぜか自分が得意満面な兄馬鹿のドヤ顔を眺めるうちに、ふふっ。明るい失笑が洩れた。
「お。やっと笑ったな」
「ええ」
「じゃあ、もう少ししたら帰るぞ」
「……そうね。ああごめんなさい、虎嘯。虎嘯も一巡りするって言っていたのに、手間を取らせちゃったわね」
「いいや、構わねえ。もう一人で大丈夫か? 二度ともっていかれるなよ?」
虎嘯は念を押し押し、手桶を置き去りにした塚まで戻る。
「もう大丈夫よ、ね?」
鈴は清秀の塚前にしゃがみこみ、そのほんのり温かな土を撫でてあげた。表面がぱらぱらと崩れて散って、蒲公英がくすぐったそうに揺れる。
それから、白い桜を見上げた。
「清秀の言葉を伝えてくれて、ありがとう」
にっこり笑いかける。
桜はもはや何も答えず――ただ、穏やかに花を散らしていた。
<了>