花に酔う
翠玉さま
2013/04/22(Mon) 01:08 No.334
慶国は禁軍左将軍である桓堆が些か不機嫌に退廷した浩瀚が気にかかり、酒を持参して冢宰邸を訪れると琵琶の音が夕日に冴え冴えと響き渡っていた。
本来ならば春の宵の美しい情景に合う音曲のはずだったが、その響きは冢宰邸に咲き誇る桜をも凍えさせる花冷えの春を思わせた。
案の定、冢宰邸の框窓(とぐち)で出迎えた下女に浩瀚の機嫌を問えば不安げに琵琶の音源に視線を彷徨わせて首を振った。
彼は下女に中胡か革胡(かくこ)はあるかと楽器を求め、二胡を大きくしたような、それでいて胴が不自然に横を向いている革胡を渡されると酒を下女に預けてこの邸の家公の元に向かった。
そして、桜の花を臨む回廊で琵琶を奏でる家公の視界に入らない位置に座ると革胡を両足で押さえて弓を取り、ゆったりと流れる大河の流れのように弦を鳴らし始めた。
琵琶の奏者は彼を振り返ることなく彼の革胡に合わせて柔らかな月光が桜の花を照らし出す音を振り出し始めた。
曲が終わると彼、桓堆は革胡をその場に立て掛けてこの邸の家公、浩瀚に近づき両袖を合わせて一礼をすると愛想良く笑いかけた。
「琵琶ってのは、しかめ面で弾くものではないでしょう?」
「確かにな」
浩瀚は素直に認めて月に照らし出された桜を見つめた。
「主上の笛の演奏にあなたが何も言わずに立ち去ったので、冢宰は音曲に関心がないのかと主上が仰っておいででしたよ」
「言葉を失っていただけだ。主上の笛の音にではなく、そのお姿にな」
桓堆は目を見開いてから、溜息をついた。
「襦裙をお召しになった主上を目にしたのは初めてではないでしょうに」
「わたしにとって主上が盛装されていようが、官服や短袍を召されようとこの国の王であることに抵抗はないが、あのたおやかな姿だけは頂けない」
そう断じる浩瀚に桓堆は腕を組んで首をかしげた。
「公務を離れられた主上にご自由に過ごして頂けるように配慮しろと太宰や内宮に詰める者達に命じたあなたがそれを仰るのですか?うら若き乙女が着飾ることは普通のことだと思いますがね」
「そのことに不満はないが、目の毒だと言っている」
浩瀚が桓堆を見据えて言うと、灯りを持った下女がやってきた。
「お食事はいかが致しましょうか」
下女が灯りを掲げて頭を垂れて問いかけると、桓堆の目が輝き、浩瀚はくつりと笑った。
「桜の見える露台に用意してくれ」
家公の答えに彼女は「かしこまりました」と応じて灯りを桓堆に渡し、一礼すると軽やかに踵を返して先にある革胡を両腕に抱えて立ち去った。
「素面で話すよりも酒が入った方がいいですよね、さあ、行きましょう!」
桓堆が勝手を知る回廊を灯りを翳して邸の家公よりも先に歩き出すと、浩瀚も琵琶を携えたまま、やれやれとその後を追った。
露台に辿り着くと、そこに置かれた石案には燭台と酒、それに軽い前菜が用意されていた。
浩瀚は露台の手前にある榻に琵琶を置くと露台の椅子に座り、桓堆にも座れと手で促した。
「この酒はお前が持ってきたのか?」
白い磁器に青い龍が描かれた酒瓶を指さし、浩瀚が訊くと桓堆は酒瓶を持ち上げて二つの酒杯に酒を注いだ。
「これは延王から主上に贈られた清酒なんですが、ご自身は飲めないからとご下賜くださったものです。延王もそのつもりで贈られたのだろうと仰ってね。いつも突然訪れる詫びだろうから遠慮無く飲めとのことでした。桜の花見には丁度良いでしょう?」
「では、ありがたく頂くとするか」
浩瀚がそう言って、酒杯を掲げると桓堆もそれに倣って酒杯を掲げ、二人で酒を呷った。再び二つの酒杯に酒を注ぐと桓堆は園林の桜を見つめながら今度は静かに酒杯に口をつけた。
「月の光を浴びた桜は今日の主上のようですね」
浩瀚が睨めつけると桓堆はその視線を捉え、くつくつと笑った。
「今更ながらに、主上との年齢差を思い知られましたか?」
桓堆の言葉に浩瀚は鼻で笑って、酒杯を一口飲み込んだ。
「そんなものはとうに自覚している。修行が足りないと嗤いたければ嗤え!どうせ、わたしには男兄弟しかいなかったから、年頃の娘には免疫がない。少学や大学、松塾までが年上の女ばかりだったのだからな」
浩瀚の不機嫌な声に桓堆はくつくつと笑った。
「俺は上の二人が姉でしたからねぇ、子供の頃は襦裙を着せられたり、特に不思議と思わずに姉と一緒に二胡や箜篌(くご)を習っていましたよ」
この桓堆の言葉に浩瀚は飲んでいた酒にむせた。桓堆は何食わぬ顔で蝦と野菜の前菜を口に放り投げていた。
「おまえ、箜篌まで弾けたのか・・・」
「ええ、実家には見事な彫りのある箜篌もありましたしね」
平然と言ってのけて、酒杯に酒を注ぐ桓堆に浩瀚は溜息をついた。
「さすがに、裕福な商家の御曹司は違うな。使用人もさぞかし美しい年頃の娘も大勢いただろう。是非とも乙女の扱いをご教授願いたいものだ」
浩瀚が酒杯を掲げて言うと、桓堆は口の端を上げて酒杯を掲げ返した。
「浩瀚様、わたしに言えることは、どんなに淑やかな乙女であろうも、女は愛らしくも狡い生き物だということだけです」
真剣に己を見つめる桓堆に浩瀚は目を見開いてからくつくつと笑った。
「あてにならぬ老師(せんせい)だな。まあ、それでなくては男はやっていけぬということか。華があってこその迷いも悪くはないか」
「華のない慶国の朝廷なんて寒々しいでしょうね」
浩瀚は月に映える桜を見つめてくつりと笑った。
「おまえもたまには良いことを言う」
この時、出来たての料理が冢宰邸の使用人によって次々と運ばれてきた。慶国の冢宰と禁軍左将軍との花見の宴は月が中天に達するまで続いたという。