花が散るのは
饒筆さま
2013/05/18(Sat) 15:14 No.490
襟首を焼く陽射しに夏を感じる。笠の下の額ももう汗だくだ。
世卓は鍬を放し、軽い目眩と共に身を起こした。手の甲で額を拭う。
――今日はここらにしておこうか……
木陰へ急ぎ、ふうと腰を下ろせば、心地好い微風が背を撫でて去る。笠を外すと、ころころころりりりん。ぽろぽろてぃろりりりん。玉の転がるような澄んだ音が明るい調べを紡ぎ、微風に乗ってやってきた。揚琴だ。
瞼を下ろし、その煌めく音色に耳を澄ます。
よくしなる細い撥をまるで生き物のように操る美しいひとが思い浮かび、自然と唇が綻んだ。
廉麟の奏でる調べは、屈託なく笑う彼女の笑い声のようだ。伸びやかで優しく、時に繊細に聴衆の心をくすぐり和ませる。
これは素晴らしい休息になりそうだ。
腰の竹筒を取って水を含んで、
――おや。
始まったばかりなのに、もう、ぱたりと音が止んだことに落胆した。今日は調子でも悪いのだろうか?
なんとなく気にかかって、世卓は立ち上がった。途中で果樹に立ち寄り、井戸で手と柑橘を清め、小籠に盛って畑から表へ巡り出る。
「廉麟」
おそらく此処だろうと、緑と曲水に囲まれた路亭を覗けば。王気を察した廉麟はすでに跪いていて、
「申し訳ありません、主上。お邪魔してしまいましたか?」
柳眉を下げてにっこり笑った。
具合が悪いわけではないらしい。ややほっとして、世卓は小籠を預ける。
「いや構わないよ。ちょうど切り上げようと思っていたんだ。それより、どうしてやめてしまったんだい?」
廉麟は小籠にそっと顔を寄せ、もぎたての爽やかな香りにうっとりと目を細める。
「お気遣いありがとうございます。実は……」
そして小籠を大切に抱えたまま、紫檀の揚琴を振り返った。
「先日、泰台輔から極北の花見へお招きいただいたでしょう? せっかくですから桜にちなんだ曲を披露しようと練習を始めたのですが……こちらの桜はもうあの有様で」
細い指が示す先には、強い陽射しを浴び青々と茂った葉ばかりの桜樹が在る。
「まるで夢のように美しかったのに面影も無く散ってしまった、と惜しいような切ないような気分になって、手が止まってしまいました」
――だって……桜は、私を主上の元へ導いてくれた花。初めてお目にかかった時に咲き初めた花。できるなら、いつまでもいつまでも愛でていたかったのに。
少し哀しげに困った微笑を刻む廉麟に対し、世卓はきょとんと眼と口を開く。
「花が散るのが惜しい?そんなに切ないかい?」
「え?……ええ。主上はそう思いませんか?」
「花が散るのは、実を付けるためだよ?」
小首を傾げた後、日焼けした頬におおらかな笑みが広がる。
「惜しむより、むしろ励ましてやるべきじゃないかなあ。しっかりした、良い実をつけるんだよ、って。……まあこの桜の実は俺たちには食べられないけれどね」
ああ! 廉麟が声をたてて感嘆した。
世卓はさらに桜樹を覗き込み、逞しく荒れた指でひと枝を指す。
「でも、あのお客さんにはご馳走じゃないかな?」
二対の視線に晒され、小さな影がチチ、と鳴いて枝を跳び渡った。小鳥だ。忙しなく尾を振り、小さな硬い実をついばんでいる。
廉麟が満面の笑顔を咲かせた。小躍りするように立ち上がり、世卓の腕をとる。
「そうですわ……実をつけるためですものね! 花が散っても、切なくなることはありませんね」
「そうだよ」
世卓はあっけらかんと頷く。それから
「ええええ? どうしたんだい、廉麟?」
世卓の腕に腕を絡ませ肩口に頬を摺り寄せる廉麟にうろたえ、汗だくの泥まみれだよ、と穏やかに制する。
廉麟は構いません、と片腕に抱きついたまま世卓を仰いで
「主上と私も、しっかりした、良い実をつけましょうね!」
淡い紫の瞳をいっそう輝かせた。
<了>