隠されし琴弾の聖域
空さま
2013/05/26(Sun) 16:41 No.559
それは、ずいぶんと早くから決まった話だった。
まだ、梅の花も咲かない、雲海の上でさえ寒さを感じるころだった。
陽子は昼餉の後いつものように執務室で署名し御璽を押しながら紙面と格闘していた。
「主上、執務中に失礼いたします」
さわやかな声がした。
「ああ、浩瀚か。入ってくれ。すまないが、少しそこで座って待ってもらえるか。もう少しでこれが終わる」
そう言いながら、陽子はふっと呼吸を止める。金色の御璽を持ち朱肉に平行になるようにおし付けてからはなす。書面の位置をよく確認しながらそっと置き、ぎゅっと力を入れた。
「ふうっ」
深く息を吐くと、正面の椅子に座りにこやかにほほ笑む男と目があった。
「何か用か?」
「はい、夫役のことでございます」
陽子はそれまで正していた姿勢をくずし、肘をつき、右手で顔の右側を抑えると、くくっと笑い声をかみしめた。冢宰を務める浩瀚と言う男は、不審そうな表情を浮かべる。
「いや、失礼した」
陽子は、そんな冢宰を正面に見ながらまた姿勢を正し、
「今年は雪が少なかったようだな。治水は、申し訳ないがしばらく民人に任せようと思う。それより、他国から慶へ戻ってくる人たちが心配だ。特に暖かい巧あたりから来る人は、慶の冬は堪えるだろう。堯天をもう少し整備して、受け入れを増やそうと思っている」
浩瀚は、にこりと笑み、
「それでは、主上のお心のままに、進めさせていただきます」
と答えれば、陽子は
「ああ、頼む」
と言ってゆったりと姿勢を崩した。そんな陽子を認めると、浩瀚は切り出した。
「ところで主上、実は私、主上にお願と申しますか、提案がございまして」
陽子は、目を大きく開きくるりと瞳を回す。
「珍しいな、私的なことか?それとも執務に関係することか?」
「その中間と言えばよろしいでしょうか?」
「ふむ、言ってみろ」
「では、三月終わりか四月の初めの公休日に、短い時間ではございますが、桜の花見を開催させていただきたく?」
「えっ、本当か?」
その瞬間、陽子の思考は蓬莱に飛んだ。
小学校の入学式、大きく見えた真っ白な看板と入学式と言う文字、その前でグレーのスーツに白いブラウスの襟を出し、三つ編みにした茶色い髪を気にしながら、強い風に吹かれて写真を撮ってもらうために立った事。
あのころは母もまだ若く、自分の晴れ姿を、はしゃいで見守ってくれたような記憶が残っていた。
――あの頃には戻れない――
そう思うと、涙が出てきそうになり、あわてて陽子は現実に帰った。
「桜は大好きだ、嬉しいよ浩瀚。誰が一緒に行けるんだ?」
浩瀚は、陽子の様子を心配そうに見守っていたが、何事も起こらなかったので、勤めて平常を心がけた。
「主上と親しい方々を、できるだけ多くお呼びしたいのですが」
「それはうれしいな」
しかし、陽子も今の自分の立場を忘れているわけではない。
「でも、大変じゃないか?どこでやるのかは知らんが、みんなが集まっては金波宮が空にならないか?」
そこで慶国の冢宰は相好を崩す。
「はい、そうならないようにいたしますので、お任せいただけますか?」
「もちろんだとも。よろしく頼む」
どんな桜なんだろうと、陽子はその時からわくわくしていた。
どうやら桜も開花したというので、三月の最後の公休日、浩瀚の案内をもとに出かけることになった。金波宮抱く凌雲山の北側に当たる小高い森の中だという。
宴を計画した浩瀚は、虎嘯を伴い、準備があるので先に出た。
陽子は、景麒が乗り気だと言うことに意外性を感じて目を見開くが、移動に使令を貸してもらえると聞いてご機嫌だった。
班渠には陽子と祥瓊と鈴が乗り、驃騎には景麒と遠甫と桂桂が乗った。禁門からふわりと飛び出すと、目的地までは四半時もかからなかった。
確かに桜は咲いていた。人の手の入らない、ひどく背の高いまるで箒の様な細長く育った桜であった。その小高い丘に降りると、浩瀚と虎嘯が宴の準備を整えている。
桜は自然に伸びていたが、この丘はたまに人が立ち寄るようだ。陽子は小さな祠があるのを認めた。
ここは丘のてっぺんに当たるところから南に下った窪地で、小さな川があり少しばかりの平らな場所が確保できる。ふと気がつくと馬が三頭、やや下った場所に繋がれていた。
「浩瀚は、馬できたのか?」
「はい、大僕にもお手伝いいただき、多少の荷を運んでまいりました」
「ふうん、御苦労さま。ありがとう」
「いえ」
気さくに言葉を交わし、陽子も皆に混じって花筵を敷いたり、四角い箱の様な包みや、これはいかにも食材の入った弁当だろうと思われる包みをその上に置く。浩瀚が、その包みの中からちょうど両手に収まるくらいの笹の葉の包みを取り出した。陽子は不思議そうな顔をしてそれを見ていた。彼は先ほど陽子が見つけた小さな祠の所まで行くと、包みを開き祠に備えて両手を合わせていた。
陽子は、そんな男の後ろから邪魔をしないように静かに近づくと祠を覗き込んだ。中には蓬莱のお地蔵さまの様な石像が、片方は翁、片方は嫗と言う姿で、ちょこんとたたずんでいた。その前には開かれた笹の葉に真っ白な蓬莱風お結びが二つ。
「なんで浩瀚がお結びなんかをわざわざ備えるんだ?」
思わず口にしてしまい、振り向いた男の困ったような顔を見て、陽子は静寂を壊してしまったことを後悔した。
二人の頭の上には、優しい風に吹かれた桜の枝が、この場所は日当たりが良いのか、さっそうと開いた花を乗せてふわりふわりと揺れていた。
「こちらに祭られている神は、お結びが好物だと伺ったものですから」
「へえ?でも常世ではあまり米を炊いて結んだりはしないんだろう?海客が祭った神なのか?」
「いえ、私もそこまでは存じませんが」
「そう?まあ、いいか」
「それより、こちらの桜はいかがでしょうか?」
「ああ、綺麗だね。私には、金波宮で華やかに咲く八重桜よりも親しみやすいな」
そう言って、陽子は微笑んだまま黙った。
彼女には、この桜は少し小さく見えた。それに花びらが細長いように見える。蓬莱の桜は、もっと大きくてたくさんの花がついていて丸い花びらにはっきりと切れ目が入っていた気がするのだが、ここではそれを言っても仕方ないのだ。
そう思っていると、花筵の方から声が聞こえた。
「おお、主上に冢宰も、準備ができましたぞ」
という遠甫の声が聞こえてきた。
「参りましょう」
浩瀚は先に立って陽子を誘う。陽子は上を見上げると、そこには先ほどと同じ桜が、高いところでたくさん咲いていた。
花筵の上には、今日集まった者が皆楽器を用意していたのだ。浩瀚は、陽子を座らせると自らは下がって、弦を貼った細長い楽器を縦に持って弓を当てる。見れば皆が異なる楽器を手にしていた。
遠甫は三味線の様なもの、景麒は横笛を、鈴は小さな鐘の様なもの、祥瓊は琵琶の様な楽器を持っていた。さらに虎嘯は締め太鼓の様な物を前に両手に撥を持って構えている。桂桂は長さの違う金棒が短い順に三十本ばかりつりさげられた不思議な楽器を前にしていた。
景麒が陽子に向かって一礼すると、
「それでは、花の宴を始めさせていただきます。まずは、こちらの桜を愛でる音色をお聞きいただきたい」
そう言った。
すると、桂桂が自分の前にある不思議な楽器を右から左にゆっくりとなでていった。
まるで、星がきらめくような音がした。かと思うと、それが始まりの合図だったかのように、太鼓や鐘がゆったりとしたリズムを静かに打ち出した。あわせて、重い琵琶の音、跳ねるような三味線様の音、そして浩瀚の弓によって弾き出される明るく美しい旋律。その上に景麒の澄んだ笛の音が重なる。
陽子は、そっと目をつむる。自分の体がゆったりと揺れているように感じた。ふと、目を閉じてはもったいないことに気付き、上を向く。まるで、歌うような楽曲が、目に映る桜の花の間をすり抜けて行くようだった。
至福の時を過ごした陽子は、また桂桂の鳴らす不思議な音を耳にする。それを合図に曲は終わり、しばらくしんとした静けさがあたりを漂った。
陽子は大きく息を吐き、一人拍手をしていた。
「すごい、いったいいつ練習していたんだ?」
それには祥瓊が答える。
「ふふ、私たちは陽子が朝議に出ている間に、かなり練習したのよ」
「そうだったのか、ありがとう、とても良い音色だった。感激したよ」
幾分ほおを紅潮させ、感想を述べる陽子に一同は満足そうに笑むと、楽器を片付けみるみるうちに花筵の上には御馳走が並ぶ。景麒に促され、陽子がいただきますの音頭をとると、宴は静かに始まった。
「おぅや?じいさま、さくらたちが踊っておりますなぁ?」
「おお、ほんとうだのぅばあさまや」
箒の様な高い桜の梢あたり、常世にも確かにあったはずの重力を無視した翁と媼が腰をかけていた。なぜか、その手には一つずつおむすびを持っている。
「ほんに美しい音色でございますなぁ」
「おう、そうともな」
二人の周りでは、小さな桜の花びらが、そよぐ風に乗りふわりふわりと回っていた。