桜の館
ネムさま
2014/03/24(Mon) 00:46 No.67
「確か、厩のいい宿だと聞いたはずだが…」
「だから、ここだよ」
笑いながら利広が示す先には、屋根は低いが幅広の厳めしい門が建っている。扉は開いているが、紺地に白い紋様が染め抜かれた幕が垂れており、中は見えない。
利広は今だ釈然としない様子の風漢に構いもせず、門脇に佇む男にスウグの手綱を渡すと、悠然と幕を払う。風漢も肚を決め、その後に続いた。
薄暗い道の角を曲がったかと思うと、突然横長の窓から明るい街道が見えた。と思ってすぐに、それが壁に掛けられた絵だということに気が付いた。そこは既に館内で、黒い壁の端から端に広げられた巻紙にだけ、明るい光が当てられている。そこには、人や騎獣、馬が行き交い、あちこちに桜が咲き乱れ、街道全体が春を謳歌している。しかしよく見るとあちこち色が抜け、一人の男が一心不乱に描き継いでいるところだった。
「ここの主は一足早い“花見”をしようということでね。今日は特別な趣向を凝らしてくれているそうだ」
「そりゃまた酔狂な。どういう知り合いだ」
利広は肩を竦めるだけで、絵の前を通り過ぎる。絵を描く男も二人に構わず筆を進める。その腕前も、握る筆や絵具も一流のものだ。
また角を曲がると、更に薄暗い通路に出る。と、突如薄闇に艶やかな華々が浮かび上がった。
八重桜、枝垂れ桜、花吹雪、臙脂に紫、薄紅、白…色とりどりの桜模様。それが一列に並んだ着物の柄―それを纏った美女達だと気付いたのは、彼女達が一斉に跪いてからだった。そして美女の列の先から、また一際豪華な金糸銀糸の縫い取りの衣装(これも桜模様)を身に付けた女性が二人、静々と近づいて来る。そして恭しく頭を下げると、無言のまま手を取り、利広と風漢を誘った。
再び角を曲がると、侍従らしい姿の男が一人、見事な金細工の文箱を捧げ持ち、頭を下げる。利広が文箱を開け頷くと、男は静かに下がっていった。
「主は少し遅れるそうだ。先に食事にしよう」
女達は頷き、二人を更に導いた。
突然空間が開けた。雅な楽の音色と共に、硬い澄んだ音が聞こえる。微かな風の動きに目をやると、大きく開いた窓の外に花弁が舞い踊っている。驚いて目を凝らすと、しかしそれは、硝子で作られた花弁を糸で繋げ、何本も窓の外に垂らしていたものだった。
窓の外には、薄紅の桜の大木の影絵が映し出されている。揺れる硝子の花弁を通して見るそれは、本物の桜の木より一層幻惑される風情だ。窓に張られた紙にも、花弁の影が揺らめいている。
「思ったより落ち着いているね」
窓に面して誂えられた八角形の三つの間、そのうちの一間に案内され、利広はゆったり座ると風漢に向かって、笑いながら尋ねた。
「少し懲りすぎているが、悪くない。鬼か蛇か分からぬが、正体を表すまでは楽しませてもらおう」
そう言いながら風漢は、女の垂らした髪を軽く指に絡ませる。女はふっくり笑い、風漢に酒杯を勧め、酒を注ぐ。一見素っ気ない無地の食器類。しかし僅かな口当たりの良さ、料理を引き立てる優美な色合いは、いずれも名のある窯のものだろう。
黒地の壁に描かれた桜と流水紋が、微かに揺れる。よく見ると、桜を染め抜いた反物が壁に掛けられていたのだ。窓の外で硝子の花弁も揺れ、一瞬、花吹雪に巻かれた気分になった。
様々な桜模様を描いた千代紙を張り巡らした一角を通り、壁に光の花が揺らめく部屋―灯を桜模様に切り抜いた型紙で覆い、天井から吊るした―を抜けると、これまた桜の形をした干菓子や薄紅や鶯色の餅を勧められた。口直しに一口貰うと、上品な甘さに舌が蕩ける。
「でも最後はやっぱり、お酒だね」
黒い幕を開けると、そこは不思議な光が堂屋を包んでいた。
高い天井からは逆三角形の巨大な灯が吊るされている。目を凝らすと、それは何十もの七色の切子細工の酒杯に灯りを入れ、段々に重ねて作られたものだった。そして壁には透明の、これも厚い切子細工の椀がはめ込まれ、中に閉じ込められた灯が揺らめいている。 これらが放つ異界めいた光の中、堂屋の中央には、巨大な桜の形を象った透明の水槽が浮かび上がっていた。
二重の水槽には透明の玉が敷き詰められ、中央に沈められた七色の酒杯の周りを、鮮やかな朱色の模様を纏う金魚が幾匹も巡っている。そのうちには、舞姫のように薄く大きな鰭を揺らめかしながら泳ぐものもあり、魚自体が桜の花弁のように見えてくる。