祭の夜
ネムさま
2014/04/08(Tue) 00:03 No.271
辻に出ると周囲を遮るものが途切れ、今日最後の陽光が一瞬見えた。そこへ迫る紺青の空を目の隅で確かめる間も無く、驍宗は人混みに先へと押し出される。
そこはまた続く異空間 ― 最もそう感じるのは異邦人の己だけかと、周囲を見回して彼は思う。通りの両脇に並び立つ屋台からは怒声に近い呼び込みの声と、客の注文する声、または歓声。旨そうな匂いと延々と続く提灯の灯に、人々の明るい表情が浮かび上がる。しかし、こうした祭の喧騒は、彼の故国にも当然ある。
― この花のせいか ―
頭上には白に近い薄紅の天蓋。僅かな風に震え、その度に淡く冷たい欠片を降らせる。雪にも似たその花弁にまた、人々は溜息を吐き感嘆する。
“サクラ”という花が在るということは、彼も知識としては知っている。また故国の南から中程にかけての山野に、同種の(多少大きさや色合いは違うが)花を実際見たこともある。しかしその花々が、ここまで大きく長く、通りを覆い尽くす光景は、先の先まで見通すことが出来る将と名を馳せる彼にしても、想像することが出来なかった。
提灯の照り返しに花は昼より白く、また紅くと色合いを変えていく。花の間から見える、まだ夕方の透明さを残した群青の空が、静かに闇の深さを増し、この華やかな通路が一時の幻だと告げているよう。
そんな、切なさが一瞬通りすぎる喧騒の中、何時になく覚束ない足どりの彼の耳に、小さな声が聞こえた。
「どこ、どこなの」
声の方へ視線を向けると、十ばかりの少年が人混みに押されつつ、左右へ首を巡らしている。迷子かと思わず視線を向けると、目と目が合った。
澄んだ瞳が微かに揺れている。思わず手を差し出しかけた彼を、少年は一瞬見たが、小さく頭を振ると、また人混みに紛れ込む。
「どこ、どこ…」
小さな姿がまだ見え隠れする。彼は後を追おうとしたが、人の群れに遮られてしまった。
親を探しているのか。しかしこれ程の人混みの中で、会えるのだろうか。何故か胸を突かれる思いがした。
周囲は賑わいを増し、花の異空間は一層華やぎながら、その端はゆるやかに闇へと溶け込んでいく。彼は吸い込まれるように足を踏み出そうとした。
「見つけた!」
聞き覚えのある声に、驍宗は振り向いた。鋼色の長い髪を揺らしながら、泰麒が駆け寄ってくる。
「よかった。こんなに人が多くて、探し出せなかったらどうしようって、李斎と心配してたんです」
そう言いつつ、泰麒はやはり小走りにやってくる李斎へ、手を振った。そしてまた驍宗の方へ顔を向けると、急に心配そうに尋ねた。
「どうかしましたか。何だかぼんやりされているみたい」
「いや… 昔、黄海や諸国を巡っていた頃出会った、桜の祭を思い出したのだ」
そうして見上げる驍宗の目には、やはり道を歩く人々を大きく覆うように咲き連なる桜の花々が映っていた。
大きな内乱の後、ようやく落ち着いてきた国土のあちこちに、泰麒は“サクラ”の木を少しずつ植えていった。胎果である泰麒は、生まれ故郷である蓬莱によく咲いていたと言う、桜の花への思い入れが強いらしい。
同じ胎果である景女王から幾種かの苗を貰い(彼の国は桜と風土の相性が良い上に、同じく女王の思い入れの強さから、改良の研究も進んでいる)、今や春になると戴の各地に、紅の色が少し勝った、透き通るような花弁を持つ桜の花々が咲き誇るようになった。
「そうか… 戴でもこれ程花が咲くようになったのだな」
驍宗が改めて花の天蓋を見上げる様子を見て、泰麒は頷く。
「はい。驍宗様が無事戻って来られたおかげです」
「いや、お前達が命がけで、私を探し出してくれたからだ」
そう言いかけた驍宗の脳裏に、ふと、先ほどの子供が幻影が浮かんだ。
か細い声で、それでも必死に誰かを探していた十ほどの少年。あれは本当にあった思い出なのか。まるで幼い泰麒が自分を探しに、思い出に、そして今この華やいだ異空間へ迷い込んできたような、そんな曖昧で、不思議とはっきりした感覚が残っている。
驍宗は横に立つ泰麒を見た。澄んだ瞳が驍宗を見つめ返す。真っ直ぐな視線には、もはや幼い頃の戸惑いや懼れは無い。その凛とした佇まいに、驍宗の目が微かに揺らぐ。
― 私か ―
あの日から、闇の中で己と戦い、陽の中に戻されてからは敵と剣を交え、その後も常に何かと戦ってきた。戦いながら、迷い、探し続けている。そうした自分が、幼い姿をして駆けていったのかもしれない。
― 賑わいと闇を包み込んだ、この儚く美しい花の空間になら ―
視線を感じ、もう傍らを見ると、李斎が心配げに見つめている。癖になった、右の片袖を握りしめる左手が、心なしか白い。
驍宗が左腕を伸ばし肩を抱えると、一瞬驚いたように固まり、しかしそっと柔らかに体を預けてきた。それを見て、泰麒がにこりと笑う。
「行きましょう」
そう言いながら、さり気なく前に出て歩き出す。
桜の下は明るさと賑わいを増していく。華やぎの中、幼子の一抹の哀しみのように花弁がこぼれ、また喧噪に紛れて消えていく。そして祭りの夜は更けてゆく。