主従譚〜冢宰編〜
翠玉さま
2014/05/22(Thu) 23:20 No.744
祥瓊が仁重殿に出かけると、鈴は内宮にやってきた太宰に蘭桂の手信の件と主上の望みを伝えた。太宰は自分が何とかしようと冢宰府へ向かった。
これは今に始まったことではない。この太宰は緊急性のない、それでいて主上に必要と思われることを世間話を装って浩瀚の元へやってくる。浩瀚は筆を止めて府吏に茶の用意を命じると太宰を隣室に案内した。
「本日、主上に蘭桂から久しぶりに手信がありましてな」
太宰は愛想よく語り始めた。
「それは、さぞかし主上もお喜びになられたことでしょう」
浩瀚の言葉に太宰は頷いた。
「蘭桂は聡明でしてな、主上のお立場を考えて当たり障りのないことしか伝えてはこぬ。また、主上も蘭桂の姉代わりを自認しておいででも、蘭桂に特別扱いはせぬよう御自身を戒めておいでだ。一般の民ならば気軽に会える間柄だというに、互いを気遣い合う様はあまりにも健気で内宮に詰めている者達にとっては涙を誘われる」
太宰は大袈裟に片袖で顔を半分覆った。
「それで、太宰はわたしに何を望まれるのか」
この言葉に太宰は顔を上げ、顔を覆っていた手を横に振った。
「おお、わたしごときが冢宰に出過ぎたことを望むべきことはござらぬ。ただ、主上の御為になることを冢宰はよきように取りはかって頂けるのではないかと思ったまで」
ここで冢宰府の府吏が茶を運んでると太宰は言葉を収め、その茶をゆったりと喫し、「ほう」と一息ついた。浩瀚も口の端を上げ、茶を口に含んだ。
「冢宰府は茶の淹れ方が実にうまいですな」
「内宮の女官には叶わぬがな」
「それはもちろん、主上に関することにぬかりはありませぬ。が、天官府で供される茶よりもこちらの方がよほど気合いが入っていると羨んだまで」
「太宰は自身のことよりも主上の御為に或るようだ。その期待に応えるよう取りはかることを約束しよう」
「おお、それはよきことを耳にした。では、拙めはこれで失礼を致そう」
太宰は軽やかに立ち上がると房室から退出した。浩瀚はくつくつと笑って残りの茶を飲んだ。
天官長が去った後に、これまた主上御自ら冢宰府を訪ねてきた。
「主上、内宮より御自ら出向かれなくとも呼び出して頂いて構いませんと申し上げているではございませんか」
浩瀚は執務をしていた大卓を廻り、主の元へと赴くと丁寧に拱手をした。
「いや、私的な頼み事があるから出向いたんだ。明日、休みをもらいたいんだけど、いいかな?」
主は小首を傾げて浩瀚を見上げた。
「理由を伺ってもよろしいですか?」
「うん、蘭桂から手信がきて会いたくなったんだ」
「台輔は何と仰っておいででした?」
「景麒の許可はもらっている」
「では、拙めの許しは必要ございません。ですが、事前に直接ご報告頂いたことを嬉しく思います」
「本当に大丈夫か?お前の仕事が大変になるなら遠慮無く断ってもいいんだぞ?」
「主上のささやかな願いを聞き入れられぬほど、我らは狭量ではないつもりですよ」
この浩瀚の言葉に主は碧の瞳を輝かせた。
「ありがとう、浩瀚! 出来る限り書簡に目を通していくからな」
主は片手を挙げて、踵を返すと軽やかに駆けだして出て行った。主が通った後には清らかな空気が漂っていた。