桜恋唄
2015/05/14(Thu) 23:53 No.586
高岫を越えると、山並みが薄紅に染まっていた。前を歩く旅人達が歓声を上げる。慶東国の春を彩る花が、そこかしこでほころびていた。
桜の季節に慶を訪れるのは久しぶりだ。だからこそ、高岫を歩いてみたかった。期待通りの美しい景色を眺め、利広は唇を緩めた。充分に目を楽しませた後、おもむろに騎獣に跨る。そして利広は一路王都を目指した。
花見客で賑わう堯天の園林、縁の紅枝垂れが美しく花ほころび、利広を歓迎する。華やかな濃い紅もそのままに、枝垂れ桜の古木はそこに佇んでいた。利広は声なく桜花を見つめ、再会を喜んだ。
花見客が帰宅する夕暮れに、利広は再び園林を訪れた。舎館にあった二胡を借りてきた。紅枝垂れに聴かせてみたくなったのだ。利広は古木の幹に背をつけて二胡を奏でた。
緋桜のようだった美しき女王。今は亡きかのひとが、ここにいる。国と民を心から愛していた紅の女王が、今も尚。
想い出の曲をひとつ弾き終えて、利広は溜息をつく。そうして、いつの間にか観客がいたことに気づいた。二胡を手にした少女が、大きな瞳に涙を溜めて利広を見つめている。利広は微笑して問いかけた。
「どうして泣いているの?」
少女は驚いたように息を吸う。自分が泣いていたことに気づいていなかったようだ。しかし、少女は強い眼差しを利広に向けて問い返した。
「――泣いているのは、あなたでしょう……?」
意外な言葉を聞いて、二胡を抱える利広は眼を瞠る。首を傾げて反射的に訊ねた。
「私が?」
少女は小さく、しかし確信に満ちて頷いた。利広は苦笑を浮かべる。確かに、今は亡きひとを想って奏でた曲だ。けれど、泣いた覚えはない。だから、利広はおどけてみせた。
「――君を泣かせるほど素敵な演奏だったかい?」
少女は激しく首を横に振った。利広を見つめる瞳から、涙が溢れ出す。しかし、半開きの唇から言葉が漏れることはなかった。言いたいことを巧く言葉にできないもどかしさをその涙が告げる。利広は笑みを浮かべて少女を見守った。やがて。
少女は己の二胡を抱え持ち、やおら掻き鳴らす。利広ははっと息を呑んだ。目の前に、懐かしい笑顔が現れたのだ。かつて、利広が二胡を聴かせた時のかのひとの笑みが。
(――楽器を習っていたことがあったんだよ。ずいぶん昔のことだけど)
女王はそう言って羞じらった。こちらにはその楽器はないのだ、と続け、小さな声で歌い出す。聞き覚えがないのにどこか懐かしいその歌は、蓬莱のものだった。二胡を抱えた利広が即興で伴奏すると、女王は嬉しげに眼を細めた。
先ほど奏でたその曲を、目の前の少女が見事に再現した。利広は眼を瞠る。笑みを浮かべた女王が、愛おしげな声で歌っている。その眼差しが、その温もりが甦るような気がした。
陽子。
名を呼ぶと、緋色の乙女は桜唇をほころばす。在りし日の面影そのままに。利広、と懐かしい声がした。彼女は今ここにいる。優しく切ない音に包まれて、利広は束の間の逢瀬に酔いしれた。
最後の音が闇に消え、女王の笑みもまた月影に融け去った。利広は我に返る。見ると、曲を弾き終えた少女もまた忘我の貌をしていた。
「――素晴らしい」
利広は惜しみない拍手を送る。茫としていた少女は現に戻り、驚いたように利広を見返した。
「君のような見事な弾き手の前で二胡を奏でるなど、私も無謀だったな」
心からの賞賛だった。少女の二胡は、巧みな技術と豊かな情感を兼ね備え、美しい夢幻を織り成した。聞いて少女は恥ずかしげに首を振る。そして躊躇いがちに口を開いた。
「――いいえ、あなたの楽に、心が揺さぶられただけ。聴かせてくれて、ありがとう」
「こちらこそ」
言って利広は紅枝垂れを見上げる。月に照らされた花房は白く淡く輝いていた。
「この桜のようなひとが……君の音に寄り添っていた。見せてくれてありがとう」
感謝の意を伝えつつ、利広はゆっくりと立ち上がる。微風に揺れる紅枝垂れが、引き留めるように花を散らした。利広は笑みを浮かべて手を差し伸べる。またいつか会おう。かつてと同じ言葉をそっと胸で呟いた。
黙して見守る少女に片手を挙げて、利広は歩き出す。耳には見事な二胡の調べがまだ響いていた。その音に寄り添う愛しいひと。
あなたは風のままでいて。
いつもそう笑ったひと。だからこそ、君はしたいようにすればいい、と言い続けた。国や民のためでなく、己の心のままに生きよ、と。生真面目な女王にそう言えるのは、臣ではない利広だけ。最後の夜も笑みを湛えて寿いだ。寿命のない王の、生からの解放を――。
陽子。愛しているよ。今もまだ。
清けし月影を見上げ、密かに呟く。そして、利広は少し潤んだ瞳を閉じた。
2015.05.14.
ああ、ありそう……そして言いそう…… 饒筆さま
2015/05/16(Sat) 23:03 No.626
しみじみと胸の内を顧みる一幕、切なくも素敵ですね。
陽子さんが蓬莱からもたらした歌が伝承されてゆく、とかって実にありそうですね。
月並みな連想では「さくらさくら」ですが、
ドラ●もんのテーマだったらどうしよう(せっかくの場面が!笑)
そして最期の夜を迎えた女王に、
「おめでとう」と微笑みかける利広さんも容易く想像できますね。
ほんと言いそうだなあ……
「私もそのうち行くから、先に行って楽しんでおいで。ふふふ♪」とか続けそう。
チクショウ! 覗き見しているこっちが泣けるじゃないか!(←覗いちゃダメ)
素敵な恋唄をありがとうございました。
ご感想御礼 未生(管理人)
2015/05/17(Sun) 10:15 No.638
末声小品に温かなご感想をありがとうございます。
ネムさん>
歳を取るほどに感情を爆発させる機会は減ってきております。
たかだか数十年でもそうなら、
悠久を生きる人々はもっとそうなのかなとも妄想いたします。
感情を素直に表す若者とそれを受け止めるもう少し年嵩の者を見るにつけ、
抑えられた思いを昇華する機会はあるのかと危惧する老婆心。
故に歳若き者に感情を解いてもらう場面を描きたかったのかも。
察してくださりありがとうございます。
私も久々にさくら連奏を聴けて嬉しく思いました〜。
そして「夜桜」を聴いてくださり嬉しく思います。
今回私はあの曲にやられっぱなしでございます(苦笑)。
饒筆さん>
「桜小夜曲」の時には特定できていなかった曲が、
今回はエンドレスリピートでございました。ドラえ○ん……(違/笑)。
実際に聴いていたのは「夜桜」ですが、
頭の中では「さくらさくら」が鳴っておりました。
そしてまた妄想を掻き立てることをおっしゃってくださる!
最終目標である陽子末声話を書きたくなりました……。