桜 貝
ミツガラスさま
2015/03/25(Wed) 09:14 No.36
赤い髪が舞い散る桜の花びらの中で小さく揺れて遠ざかる。
散った桜はどこに行くのか、そう問われた時に示した方角へ一人歩いているのだと、浩瀚には分かっていた。
その話をしたのは、もう随分と前になる。気の長い事だと、浩瀚は微かに笑った。
(殆どの散った桜は庭師が始末致しますが、雲上の川面に散った花びらが吹き寄せられて流れいく先は雲海ですね)
(雲海の下の地上に雪のように花びらが落ちたりはしないのか?)
(いえ、殆どは藻屑となって消滅致しますが、時折何かの拍子で貝になる桜がございます)
(貝?桜の花びらが?──あ、もしかして安直だが桜貝とか?)
(はい、滅多に生成されませんが雲海の水で長い間塩漬けとなり硬い桜貝と成るのです)
(へえ、桜の塩漬けなんて、食べ物みたいだな)
(そう、食べられますよ。貝そのままを──)
不思議な話だと、聞いた時は感心したが、未だにそんな貝を陽子は見つけたことがない。その時より陽子は桜の終わる頃になると、水面に散った花筏に誘われて桜の流れ着く雲海の浜へと散歩するのが習慣となっていた。一面薄桃色の川面はそれだけで美しく、終わりかけの桜の楽しみ方として十分だが、浩瀚の話がやはり気にもなる。さりとて桜の無い時期にわざわざ浜へ桜貝を探すというほど暇でもない。それはこの時期だけふと心に引っかかる一つの見つけられない謎解きだった。
眞白な砂浜に点々と花びらは落ちている。流れ着いた花びらが汽水域で渦巻き海へと消えて行く。泡立つ波打ち際で翻弄される花びらは既に色褪せ存在が有耶無耶だ。雲海は全てを飲み込む程に清浄であり欠点も無く雄大だった。
ぽつんと、浜辺にそれが目に付いた。他の桜の花びらの残骸とは異なる異質な色艶は一目でそれと分かる。
──桜貝だ。
しげしげとその貝を眺めた。昔、蓬来で見た桜貝と何ら遜色はない。爪でカチカチと音を立てると、如何にも硬質な貝そのものだ。雲海の水で砂を落とし水気を振った。
あの時、浩瀚は食べてはいけない、とは言わなかった。用心深いあの男のこと、王の身に障る物ならきつく念を押して拾い食いなど決してするなと言っただろう。
かり、っと陽子は小さく端を齧った。予想に反し小さなかけらはホロホロと崩れて口の中で瞬時に溶けた。塩味の後に残るほの甘さ。その味わいは頼りないほどで、陽子は更に一口齧る。捕まえなければ逃げて行く様な焦燥感に堪らず陽子はそのままサクサクと桜貝を平らげた。
ふわりふわりと桜が雲海の側まで風で運ばれる。風の流れと、水の流れの行く先は何時もこの時期決まっている。追いかけるその先に見つけた赤い髪は、未だ雲海を眺めていた。静かに浩瀚は近づいて行く。
振り向いた少女に声をかける前に、襟元を掴まれ唇がぶつかりあった。
突然──といってよい衝撃に痛みが混じる。思わず身じろぐ身体を強く引き寄せられた。
「暫くこのままで、勅命だ」
唇を微かに離し囁く言葉は行為に反して鋭さを持っていた。唇が小さく動く度に吐息が触れると、浩瀚が思う間にまた再度桜色の唇で己の口を塞がれていく。陶然と酔いしれる心地に、痛みなど、とうに引いていた。
長い口付けは、波が静かに引くようにゆっくりと離れていった。
陽子は目を真っ直ぐに見据え、濡れた口元をぐいと乱暴に拭う。その表情は、あまりにも何時もの王の顔であった。それに単純に落胆を覚えながらも自然、浩瀚も冢宰の顔になる。熱の触れ合っていた唇だけが切り離されたように疼いていた。
「桜貝を食べたら、急に、こうしたくなった。どうしてかな」
先程まで重なり合っていたはずの陽子の唇から硬質な響きの下問、という形式的に発せられた王の口調に浩瀚は正しく真実を述べるしかなかった。
「元は二枚貝の桜貝が、有るべきはずの片割れを求める代替に唇を求めるのだと言われております」
「雲海の呪力で?不思議な効能だな。──だがお前は、桜貝を食べるなとも、食べるとどうなるかも話さなかったな。──こうなるとの予測が?」
「──軽蔑、なさいますか」
開き直り、とも取られる浩瀚の態度に陽子は目を細める。
「…お前は、腹黒いわりに素直だ」
陽子は是非を判じない代わりに、ふい、と顔を背け身体を一歩引いた。それにつられて浩瀚は跪礼する。臣下としてそうする以外に無いのだと。
「桜貝はもう食べない」
淡々とした陽子の言葉に、どう返答してよいのかただ静かに頭を下げる。一つ、また一つと桜の花びらが音も無く砂浜に降りていた。軽やかな景色が重たくて瞼を閉じる。
その伏せた浩瀚の瞼に、柔らかな温もりが降りた。突然の刺激に震えた睫毛の先が離れていく唇をかすめる。刹那に捕らえた視線の翡翠は息を呑むほどに美しかった。柔らかく上げられた口角が悪戯気に近付き、浩瀚の唇で小さく音を立てた。
「──必要、無いのだろう?」