桜前線
ミツガラスさま
2015/04/02(Thu) 22:34 No.112
慶国の街道に、騎獣に乗った三人の姿があった。
二人は吉量に、もう一人はすう虞という高価な騎獣に跨っている。だが騎獣に比べそれぞれの衣服は簡素で、どちらかと言えば主人の騎獣を借りてきた従者、といった様だ。まさかそれが慶国の女王と隣国雁の王であるとは誰も気がつかぬだろうと、一人共を仰せつかった桓堆は思う。
その桓堆は前に並ぶ二人より少し離れ、神妙な顔で付いてきている。二人と自分との立場もさる事ながら、金波宮にいる面々から絶対に目を離すなと厳命されていては心休まる時が無い。それで無くとも少しでも気を抜けば、二人共何をしでかすやら何処へ行くやら分からぬお方ときているのだ。
何事も無く無事に金波宮へ女王を連れ帰る、ただの散策とは言え自分に与えられた使命に桓堆は言い知れぬ緊張感を持っていた。
それに比べ当の二人は時折笑いながら実に楽しそうである。そもそも今回は女王の息抜きを兼ねた御忍びでの郊外視察という計画だった。出立時に突然舞い込んだ賓客が「俺も付き合う」といきなり割り込んできた事で、桓堆は要らぬ気苦労を背負い込む羽目になったのだ。
「桓堆、川沿いの桜が綺麗だ。この子にも水を飲ませたいし、この辺りで少し休憩しようか」
くるりと振り向いた陽子に、桓堆は騎獣を止め前方の景色を見た。桜の好きな主の為に予め決めておいた場所ではあったが、思った以上に美しく桜の花は満開となり川沿いを縁取っている。勿論桓堆に否やは無く馬首を川縁へとめぐらせた。
騎獣に水を飲ませ一息つくと、川上より大きな水音が聞こえ女の叫ぶ声がした。緩やかに蛇行した川の対面へ目を向けると何かが流されて来る。バシャバシャと激しく浮き沈みする赤い塊を目で捉えるや否や、陽子は滑るように駆け出していた。
「仔馬だ!」
「主上!」
止める間もなく陽子は川の中へと入って行った。それに並ぶ様に尚隆も入って行く。反射で急いで桓堆も川へと入る。身を刺すほどに水は冷たく流れは速い。胸まで水に浸かりツルツルと滑る川底に足を取られぬよう踏ん張りながら流され近付いてくる仔馬へと歩みを進める。
仔馬とはいえ暴れる馬を水の中で捕まえ岸へ戻してやるのは相当手こずるに違いない。それ以上に王に万一の事があっては取り返しの付かぬこととなる。相変わらずの無鉄砲さに文句の一つも言いたい所だが、桓堆は王二人よりもなんとか先に仔馬へと近付いてその体躯を抱き留めた。だが暴れる仔馬を掴むのに精一杯で川岸へと向かうどころか、その場に留まるのがやっとである。
「桓堆!流石だな!」
がっしりと馬を掴む桓堆に尚隆は感心して破顔する。が、桓堆に笑い返す程の余力はない。
「これを!」
女の声と同時に縄が投げられた。陽子がそれを掴み仔馬の首へと掛けてやる。仔馬の身体を支えてやりながら、川岸で引かれる縄を頼りに仔馬は足をようやく地へと付けた。
「くしゅん!」
焚き火のそばで丸まり鼻をすする陽子は流石にばつの悪そうに笑った。
仔馬の持ち主である朱民の旅芸人一座が、助けた仔馬のお礼に是非にと、衣服を借りた上に毛布に包まり皆で暖をとっている。
彼らは毎年春になると奏から始まってぐるりと右回りに才、範、恭と咲いていく桜を追いかけるように北上しているのだという。今回、慶に新しい王が立った事で左回りに移動したという事だ。安定している国は商売敵も多く、慶に先んじて来る事で新規開拓の活路を見出すつもりだと。
そんな雑談の最中、再度くしゃみをした陽子に尚隆は呆れたように陽子の頭を小突いた。
「全く考えなしにも程がある」
「風漢も動いたのは同じでしたよ」
「いや、お前の方が僅かに速かった。それに俺なら何とかなるが、お前の力では難しかったはずだ。桓堆が結局お前の尻を拭った訳だろう」
そう言われてしまうと返す言葉もなく、桓堆に向けて頭を下げるしか無い。
「桓堆、すまなかった、ありがとう」
「いえ…」
先に延王に諌められた上に改まって謝罪されては桓堆にもう文句は言えない。笑って助けた仔馬をちらりと見やった。その仔馬は見事な赤毛、大概は栗色に赤みがある馬を指すが、それは本当に鮮やかな赤毛だった。そう、目の前の緋色の女王の髪とよく似た色だ。燃え立つような毛艶の輝きと澄んだ瞳の煌めき、仔馬ながらも均整の取れた体躯から、成長すればどんな名馬になるかと惚れ惚れした。
川縁で縄を投げた女が熱い茶を運びながら近づいて来た。年はようやく正丁となった頃合いだろうか。肉感的ではっきりとした顔立ちの娘だった。
「本当はとっても賢い子なんだけど、どうにもお転婆で好奇心旺盛でね。川の中にいた魚が気になったみたいで追いかけちまってさ」
「そうか、何だか誰かに似ているな」
くっくっ、と笑う尚隆に陽子は話をそらすように娘に話しかけた。
「仔馬が無事で何よりだ。この仔は随分と小さいけれど、産まれてどの位なんだろう?」
「産まれてまだ十日も経っていないよ。野生の卵果から孵る所をたまたま見つけたんだ。あんまり見事だから連れて来ちゃった」
娘は悪びれずにそう話したが、いくら野生とはいえ慶の地で産まれた仔馬を勝手に朱民の財産とするのはどうであったか、と桓堆は思案した。本来なら届けが必要なはずだが、朱民相手では簡単に許可も降りるまい。少し難しい顔付きになった桓堆を見てか、娘はむっとした表情になる。
「もしかしてけち臭いこと考えてるんじゃ無いだろうね、何も自分の物にしようなんて思って無いよ。これはね、景王に献上するのさ」
「景王に…?」
突然自分の名が出て陽子は驚くが、勿論娘はそうとは気が付かない。陽子の驚きを荒唐無稽な話と思われたと誤解したのか腰に手を当て自信ありげに鼻を鳴らした。
「こんだけ赤色の毛並みが綺麗で顔付きもいい馬だよ。新しい王様も赤毛だって言うだろう?きっとこの子を気にいると思うんだ。それでさ、その御縁でちょっとは私らにも目をかけてもらえるだろ?商売やる上でやっぱり偉ければ偉い人のお墨付きがあった方がやり良いからね。こういう貧乏な途上国では権力がモノを言うからさ。目を付けられて仔馬を下役人に取られるより献上品って言えば無体な事も出来ないはずだろ」
「ああ…うん…」
陽子は何とも言えない顔で娘の話を聞いた。勿論陽子は良い馬だと思いはすれど、欲しいわけではない。彼等なりの処世術なのだろうが、慶は貪官汚吏が蔓延り賄賂が未だ横行している、との評価なのだろう。そして恐らくそれは正しいのだ。金波宮の中から少しずつ改革を進めたとしても、それが末端にまですぐ届く訳ではない。遣瀬無い心持ちになる陽子の隣で尚隆が娘に話しかける。
「確かにこの馬は良い。将来は赤兎馬にも劣らぬ名馬になりそうだ」
「なんだい、その赤なんとかって?」
「昔の崑崙にいたとされる名馬だが──どうだ、俺に譲ってはくれんか?勿論金は払うぞ。ただでくれてやるより良かろう?」
尚隆の言葉に遠慮無く娘は値踏みする。
「どうだろねえ、あんたすう虞なんて乗ってるし実は結構なお大尽なのかもしれないけど、所詮慶の金持ちなんて底が知れてるよ。あたしは奏も雁も知ってるからね。そんな所の金持ちときたらそりゃあもう凄いんだ。あんたに売っちまうよりきっと物凄い黄金を積んでくれるよ」
「燕麗、助けて頂いた御仁の気を悪くするような事を言うんじゃないよ。すまないね、どうにも考え無しにポンポン喋っちまう娘でね。これでも悪気はないんだよ」
占い婆にペチンと尻を叩かれ燕麗と呼ばれた娘は頬を膨らませた。
「だって献上するって言ってんのに横取りするような事を言うからさ」
「それはすまなかったな。燕麗は随分景王に献上したいんだな」
「そうだよ、本当は男王ならもっと良かったんだけどね」
その言葉にどきりと陽子は顔を上げた。桓堆も娘を咎めるべきかと俄かに気色ばむ。尚隆は構わず何故かと娘の真意を聞いた。燕麗は笑ってシャラと足首の鈴を鳴らすと、片足で軽やかに回りふわりと広がった襦裙の裾から綺麗な足を覗かせた。
「だってさ、男なら私の色香で惑わせて寵姫になれたと思うんだよね。赤毛の仔馬に乗って一緒に献上って筋書きよ」
その如何にも自信ありげな姿に陽子と桓堆は目を丸くしたが、尚隆は面白そうにニヤリと笑った。
「では雁に行けばどうだ?馬と共に王宮に召し上げられるかもしれんぞ」
「雁?あそこの王様は五百年ずっと女の寵姫がいないんだよ。男しか興味ないんだって。男の寵姫を沢山囲ってるって話だよ」
心底嫌そうに話す燕麗に陽子はぶっと吹き出し、桓堆は下を向き肩を震わせる。尚隆だけが苦虫を噛み殺したように、その話は全くのホラだ、と娘に釘を刺していた。
その後、満開の桜が咲く樹の下で、服が乾く間皆で陽気に笑い歌い踊った。燕麗の踊りは大層見事で思わず皆で見とれる。寵姫となる自信はこのあたりからも来るのだろう。いつしか陽子も手をとられ一緒に踊る。尚隆も踊り、桓堆も踊る。桓堆は武人らしくキビキビとしていたがなかなか上手く皆の喝采をよんだ。
「赤い仔馬はさ、献上なんかしないで、燕麗が育てればいいよ。上手く言えないけれど…慶国は仔馬を取り上げたりなんかしない」
手を取り踊り合う陽子が燕麗の顔をじっと見つめて言った。陽子のその瞳の靭さに思わず燕麗の頬は赤くなる。だが少し考えた後、勝気な顔でにこりと笑った。
「私もさ、本当はそんな気がしてた。散々貧乏とか言ったけど…こんなに綺麗な桜が咲いて良い仔馬が産まれるんだ。慶はきっと良い国になる」
その言葉を聞いた旅芸人仲間達からは変な理屈だ、とからかわれていたが、陽子は嬉しかった。
何もない荒れた閑地が広がる中にあっても、晴れやかな空に穏やかな陽気は春らしい風を運び、大地には若芽が息吹く。雪解けの水は眩しい位に光を跳ね返しながら川へと流れこむ。そして桜の花は明るい彩りをこの地に添えていた。
桜は間も無く慶の地全てで花を満開に開かせるだろう。