貝 桜
さらこさま
2015/04/07(Tue) 00:49 No.169
懐紙の上にころりと載せられた美しい粒の一つを摘み上げ、藍滌はほう、と吐息を漏らす。
それはうっすらと薄紅に色づいた半透明の小塊。
太陽石のようでもあるけれど、それよりは少し曇りがある。
玉髄の中にもこうした色味を見ることもあるけれど、それに比べれば透過性が高い。
「・・・やはり、紅水晶かの」
このところすっかり復興した慶国の春の景色を眺めにやってきた堯天の茶館。
それなりの格式の店にふさわしく、仰々しくはないけれど、適度には洒落た設いの四阿で供された名物の緑茶に添えられていたのが薄紅色の小菓子だった。
そなたの爪のように可憐なものよと囁いて口元に差し出された指先ほどのそれを、梨雪は素直に唇で受け取った。
さりりと軽く食めば儚く口中に崩れ、淡い花の香りと仄かな塩気と酸味を含んだ甘さが広がる。
殻の薄い貝をかたどったそれは、まるで恋を夢見る乙女のような切ない風情で・・・。
「さすがは女王のお膝元っていいたいところだけれど、どうして花の形にしないのかしら?」
絶世の美少女の姿をしているけれど、梨雪は麒麟。
菓子であるとはわかっていても、生き物の形を模したものを口にするのはあまり気分の良いものではないのだ。
麗しい乙女の爪の先、あるいはふっくらとした唇を思わせるその貝には、姿にふさわしい効能がまことしやかに伝えられる。
嘘とも真ともつかぬところがまた、ゆらぐ年頃の娘に似つかわしく、微笑ましくもある。
その貝を模した琥珀糖には<貝桜>という銘が付けられている。
金波宮の味を伝えるという職人が開いた菓子舗の製で、近年では広く市井にもその銘が知れ渡っているのだとか。
「乙女の唇に触れる菓子には、桜貝の形はいかにも似つかわしいものではないかえ?」
「お菓子は女の口にだけ入るものではないでしょうに」
「さりとてかように可憐なものは、男の無骨な指に摘み上げられるのは無粋に過ぎようよ」
やはりこれはか細き女人にこそ似付かわしかろう。
半身たる少女をいとおしげに見やった藍滌だったが、ふと持ち上げた茶器に揺らぐ新芽を集めた緑茶に緋色の髪を持つ女王を思った。
年貌こそ乙女の真っ只中とはいえ、彼女にはなよやかなところは殆ど無い。
女らしくということに抵抗するがごとく、雄々しく王であろうとする彼女は、こうした菓子をどう思うのだろう。
ひとしきり茶を楽しんだ彼は、そっと相方の少女に耳打ちし、二人してくつりと笑って席を立った。
何の先触れもなく唐突に正面から訪ねてきた客人を、景麒は常と変わらぬ仏頂面で出迎えた。
相手は隣国の主従に劣らぬ難物。
とても彼の手に追える相手ではないと熟知しているから、不承不承ながらも時間を割いて最低限の礼儀を示すのである。
「そんなに警戒しなくても大丈夫よ。ご機嫌伺いに来ただけだから」
「花見に来て顔も見せぬでは、陽子に叱られよう」
「・・・左様でございますか」
所作こそ慇懃ではあるものの味も素っ気もない能面顔で流されたところで、海千山千のお耽美主従が怯むはずもない。
そういうことなのだけど陽子は何処かしら?と見てくれだけは愛らしい梨雪に問われて、景麒は盛大なため息をついた。
彼の主は、数日前に行った観桜の宴のために溜まった仕事を片付けている真っ最中で、出迎えに出る暇もないほど。
今頃は執務室に監禁(カンヅメ)で延々と印を押しているはずだ。
「あらあら、大変なときに来ちゃったかしら?」
「・・・・いえ」
何時だって大変なことには変わりないのだ。
だからわざわざ立ち寄ったりしないで国内に大金だけ落としていってくれればありがたいのだが、と金波宮の誰も・・・とまではいかずとも大半が思っているのを景麒は知っている。
知ってはいるが、それが表情に出るほどの感情の動きを感じる景麒ではない。
むしろ自分の要領の悪さを棚上げして主の無計画を責めてしまうくらいなのだが、そんな彼でも他者に同情しないわけでもなかった。
「ご足労頂いたお客様に、お茶をさし上げるほどの時間はありましょう」
長い時間を割くわけにはいかぬと釘を差しておいて、彼が二人を案内したのは積翠台の側にある四阿。
機密事項を扱う場所近くに客を招く訳にはいかないが、さりとて主に仕事を忘れさせてもいけないという、ちょうどいい距離感の場所だ。
小さな四阿のある園林には様々な種類の花木が植えられているが、今目立っているのは薄紅の花をつけた枝々。
ことに見事なのはうつむきがちな桜の蕾が枝垂れた枝先に揺れている様で、無数についたその花は手土産に持参した菓子の姿によく似ていた。
咲き始めてはいるもののまだ開ききらぬのか、それともそのままの状態で散ってしまうのか・・・。
次第に淡くなる色調の花は、風に揺らぐごとに触れ合って音がせぬのが不思議なほど。
眺めている内に花房の中から幾片かの白く色の抜けた花弁が、雲海の岸辺に泡立つ飛沫のごとく、風に舞い上がって行った。
目を細めてそれを見送る客人たちの視界に、急ぎ足でやってくる待ち人の緋色の波が・・・。
しなやかな身体を黒の官服に覆い隠した少女は、くくっただけの髪を揺らして、半身が身を引いた席に滑り込んだ。
型通りの、というには少々砕けた挨拶を交わしていると、髪を飾っていたごくごく薄い色の小片がひらりと舞い落ちた。
四阿までの通路で纏ったのだろうそれを目にして、陽子は軽く息をつく。
毎年お決まりの小宴は催した代わりに、明るい時間に花を愛でる時を逸してしまった。
数日のうちにも盛りは過ぎてしまう儚さに、日頃は忘れてしまいがちな時間の流れを思い知らされる。
「忙しいほうがいいという人もいるけど、何時までたっても余裕が無いのも困りものですね」
「暇になると退屈してしまうんじゃない?」
「そんな台詞、一度でいいから言ってみたい」
「まあ、そう言うておる内が華やもしれぬよ」
「そう・・・でしょうか」
見向きもされなくなったら世も末だといわれるのに懐疑的な目を向けつつも陽子は客人たちに茶を勧め、自分は目の前に並べられた菓子の中から山と盛られた打菓子を引き寄せた。
ほんのりと淡い紅を刷いたような白い小菓子は、やはり貝に似た形をしていた。
最初はありふれた砂糖菓子だったのもを、もっと普通に美味しいものをとラムネ菓子を目指して改良し、口溶け滑らかでありつつもさわやかな甘酢っぱさに仕上がっている。
それを無造作に口中に放り込みバリバリと噛み砕く心地よさ。
書類仕事の疲れが払拭される爽快感を味わっている陽子の横顔に、なんとも形容しがたい顔をした美麗な主従の視線が突き刺さる。
呆れたような、落胆したような・・・しかし、予想が裏切られても居ないような、そんな複雑な気分を込めた視線だったが、向けられている方はちっとも気がつく様子もない。
梨雪は雄々しく菓子を食べている陽子から目をそらし、持参した菓子を下官に預けた。
やがて美しく盛りつけられた菓子が供されると、陽子のどこか虚ろげだった表情がぱあっと明るくなった。
「これ、まだあったんだ・・・」
「あら? 堯天にあったお菓子なんだけど」
「すっかり消えてしまったんだと思ってて」
寒天と砂糖を固めて作る琥珀糖はとにかく手間がかかる。
多少は日持ちのする半生菓子ではあるものの、絶妙な食感を楽しむための食べ頃は数日かそこら。
最初は宴席の設けられる日を狙って作られていたものが、桜の開花に合わせて行われる花見の宴の日取りを正確に読むのが難しく、王宮で供されることがなくなってしまったのだ。
「この独特のチョリチョリした歯触りがいいんだけど、景麒は何故か嫌うんですよね」
「麒麟ですもの。やっぱり貝に似ているのが嫌なんだわ」
「・・・貝?」
なぜだかやるせなさそうな顔の梨雪に、陽子は思いっきり首をかしげる。
「たしか、桜の花を閉じ込めたお菓子だから、そのまま貝桜って銘にしたんじゃなかったかな」
確かにあの枝垂れ桜は貝桜と言って、蜆みたいな姿にしか開かない。
散る直前まで完全には開き切らないので、他の桜ほど白っぽく色が抜けることも少なく、枝に付いた薄紅が保たれる。
摘み取るのに形が崩れない上に、枝垂れて手元に花がつくので収穫もしやすく、保存のために塩漬けにしても色も香りもともに良いので、食用にも使いやすいと近年広く普及したのだ。
酒に浮かべて形を愛でるも良し、料理の飾りに使って風情と香りを楽しむも良し。菓子に使えば隠し味にもなる塩気が甘いだけではない複雑な味わいとなって舌を楽しませてくれる。
その塩漬けにした桜の花弁が、薄い砂糖衣を纏った繊細な菓子の中に封じ込められているのだ。
だから銘を請われたときに、センスの欠片もないことは承知の上で単純に<貝桜>と桜の名前を付けたのだけれど、作ってくれた菓子職人はもしかしたらあの花に似ているという貝の姿を模したのかもしれない。
海のものに詳しくない陽子は今の今まで気が付かなかったけれど、それを知る者たちには貝に見えていたのだろうか。
ゆっくりと緑の瞳が動き、髷を飾る歩揺も優雅な王の顔を素通りして、梨雪のこの上もなく愛らしい顔と、自らの半身のこの世の終わりのような顔を見比べた。
菜食の生き物が忌み嫌う食感と形状をしているということは、自分以外はみんな花と貝を重ねあわせてイメージしていたということになりはすまいか。
「あ、そうか。貝みたいに食べても美味しいから貝桜?」
「・・・陽子ったら食べることばっかりなのね」
「え? 違う意味?」
ひょっとして、ひょっとするけど、花入りのお菓子だと思ってたものには、なんか特別の意味みたいなものが潜ませてあったりなんかして・・・?
ひょっとしなくても、そう・・・だったのかな?
四阿に漂う微妙な空気をようやく察してあからさまに視線をそらせる陽子に、あらゆる種類の溜息が。
彼女の春は、まだまだ遠そうだった。