再訪問
2016/05/22(Sun) 16:32 No.741
芳陵を訪ねるのは二度目だ。あのときは、知らずして胎果の王と同道していた。今は、別の胎果の王と共に郷都を歩いている。楽しげに辺りを見回す背の高い連れを見上げ、楽俊は小さな溜息をついた。
「どうした?」
「ほんとうに行かれるおつもりですか?」
「無論だ」
陽子が世話になったそうだしな、と身を窶した延王尚隆は軽く笑う。楽俊は肩を竦め、今度は深い溜息をついた。
壁先生にお礼がしたい。
慶国の王となった陽子から届いた鸞はそう語った。王として多忙な日々を過ごす親友の頼みだ。己も陽子のお蔭で無事大学に入学できた楽俊は、一も二もなく旅の支度を始めた。そんな折、どこで聞きつけたのか、延王尚隆がふらりと現れて、旅の道連れを申し出たのだ。恩義ある延王を無下にもできない。また、
騶虞を貸す、との魅力的な提案に逆らえなかった楽俊であった。
目立つ騎獣は門を潜る前に隠した。日頃の行動を想像させるその手慣れた所作に、楽俊は小さく嘆息する。大国雁の王は楽しげに大きな肩を揺らしていた。
芳陵の庠序に辿りつくと、壁落人が柔和に笑んで楽俊を迎えた。落人は楽俊の連れを見て不思議そうな貌を見せる。
「――この方は?」
「海客です」
楽俊は端的に説明した。背の高い連れは神妙に一礼し、名を名乗る。
「小松尚隆といいます」
落人は納得したように頷いた。そんなふうに一通りの挨拶が終わる。楽俊は居住まいを正し、本題に入った。
「――陽子は景王でした。あの後、延王のご助力を得て慶国へ戻り、今は金波宮にいます」
聞いた落人は僅かに眼を瞠ったが、柔らかな笑みを浮かべて首肯した。楽俊は話を続ける。
「延王に会え、と助言してくれた先生に感謝しています。何か望みがあれば叶えたい、と」
「有難いお話ですが……特にありませんね」
落人は柔和に笑って即答する。欲のないことだ、と呟く微かな声がした。その意図を慮り、楽俊は口を継ぐ。
「私は大学進学の機会を得ました。先生も何か希望があれば、景王も延王もきっと叶えてくださいます」
「――延王も?」
落人は首を傾げて問う。楽俊は敢えて声なく頷いた。延王その人が隣にいる。しかし、そんなことを口に出せるはずもない。
「私はここでの暮らしに満足しています。お気持ちだけは有難く」
ほんとうに欲がない。望みを言えばそれが叶えられる。こんな機会はそうあることではないというのに。内心で感嘆しつつ、楽俊は落人に問いかける。
「王に会ってみたい、とは思いませんか?」
それこそ望めばすくに叶う願いだ。何せ延王がここにいるのだから。しかし。
「私は単なる海客ですからね。それに、王にはもうお会いしましたから」
落人が思いがけないことを言う。楽俊は首を傾げて事実を述べた。
「――あの頃、陽子は王ではありませんでした」
「いえ」
落人は微笑し、ゆっくりと視線を移す。その先にいる者は、真っ直ぐに落人を見つめ返し、にっと笑んだ。楽俊は二人を見比べて押し黙る。やがて。
「――お初にお目にかかります、主上」
落人は延王尚隆その人にそう声をかけ、椅子を降りて叩頭した。尻尾を立てて絶句する楽俊の背を軽く叩き、延王尚隆は破顔する。
「慧眼だな」
「恐れ入ります」
伏礼したまま応えを返す落人に、面を上げよ、と声をかけ、延王は面白げに問う。
「何故分かった?」
「――彼が、景王も延王も、と言いました。前回いらした陽子さんが景王ならば、今回いらした小松さんは延王なのだろう、と」
身体を起こした落人は淀みなく答える。礼を取りつつも物怖じしないその態度に、王は興を覚えたようだった。にやりと笑って問いを重ねる。落人はその度に明瞭な応えを返した。王は楽しげに眼を細める。落人もまたにこやかに対峙していた。胎果の王と海客の教師の問答を、楽俊も興味深く耳を傾けた。やがて。
「そなたの話は大層面白い」
「恐悦至極に存じます」
「俺の願いを叶えてもらえるか?」
王は笑みを湛えてそう訊いた。楽俊は背に緊張を走らせて落人を窺がう。しかし、落人は気負うことなく応えを返した。
「私にできることでしたら」
「海客のことをもっと知りたいときには、またここを訪ねてもよいだろうか」
「いつなりとも」
悪戯めいた笑みを浮かべる王に、落人は恭しく拱手する。楽俊はそっと安堵の溜息をついた。そんな楽俊を促して王は立ち上がる。軽く頭を下げ、王は破顔した。
「今日の礼に桜を贈ろう」
海客に似合う花だ、と続け、王は踵を返した。少し眼を瞠った落人は、ふと懐かしそうに眼を細めて王の背に頭を下げる。その貌と桜という花の名は、楽俊の胸に深く刻まれた。
庠序を辞して帰途につく。楽俊は王に問うた。
「桜とはどんな花なのですか」
「蓬莱では春を告げる花だ。こちらでは珍しい」
胎果の王はそう答え、花が咲いたら見に来るといい、と続けて楽しげに笑った。柔和な海客の教師は、この先も苦労させられるのだろう。そう思うと苦笑が込み上げる。しかし楽俊は、桜と聞いた落人の懐かしそうな貌を思い出した。
異郷に流されてなお逞しく生きてきた海客が見せた淡い望郷。様々な思いが託されたまだ見ぬ花を見たくなった楽俊は、楽しみにしています、と笑みを返した。
2016.05.22.
後書き
2016/05/22(Sun) 16:35 No.742
推敲に入ってからが長かった「再訪問」、漸く表に出せました〜。
久々に楽俊を書きました。
壁先生は管理人の心の伴侶でございます。
蓬莱に未練はない、と言い切った壁先生ですが、
桜に反応してくださったら嬉しいな〜との管理人の妄想でございました。
実は「激白祭」に出したかった一作でございます。
3年も熟成させてしまいました(苦笑)。
掲示板への投稿はこれが最後になります。
管理人作品会場にもうひとつ出せたらいいなと思っております(間に合うかな〜)。
さて最終日でございます。素敵な桜が続々と投稿されて、管理人は狂喜しております!
まだまだお待ち申し上げておりますよ〜。
それでは後程レスしに戻ってまいりますね。
2016.05.22. 速世未生 記
ご感想御礼 未生(管理人)
2016/05/23(Mon) 22:50 No.820
皆さま、拙作にご感想をありがとうございました。
ネムさん>
自ら落人と名乗るところに壁先生の心意気を感じます。
かの方も言葉を交わしてみて思うところがあったのではないか、
なんて妄想してしまいました。
こちらこそ今年も数々の美しい言葉を贈ってくださりありがとうございました。
饒筆さん>
蓬莱人はみんな桜が好き(笑)。
人それぞれ桜に抱く想いは違えど愛でる気持ちは同じなのかもしれません。
花見酒、ほんとにやるかもしれませんね、かの方なら(笑)。
桜蓮さん>
和歌を見ても花といえば桜でございますよね〜。
梅が好きだった私もいつの間にか桜に魅せられておりました。
壁先生にも是非桜を懐かしんでいただきたいものでございます〜。
葵さん>
おお、葵さんも壁先生がお好きですか!
私は尚隆が大好きなのですが、常世で伴侶を選ぶとすると壁先生一択でございます(笑)。
そんなわけで、私の願望が数多く練りこまれた一作となりました。
お楽しみくださりありがとうございました!