花見舟
葵さま
2017/04/30(Sun) 18:17 No.371
趣味は、と聞かれたならば、胸をはって土木工事と答える。土木工事。最高じゃないか。何が悪い。
陽子は官服の裾をたくしあげると、もっこで掻きだした朽葉や泥やらのぐちゃぐちゃした混合物を、水路の外めがけて勢いよく放り投げた。やんごとない女王様は束ねた朱髪からとんがった室沓の先っぽまで、もののみごとに泥まみれである。
「このデカい石が邪魔」
肥えた子豚ぐらいはゆうにある、岩と石の中間ぐらいの大きさのそれを気合と共に持ち上げ、肩にかつぎ、えいやと鼻息荒く投げ飛ばすと、せき止められていた水路の水がどっと石池めがけて流れ込み始めた。やったぜ、と人型をした泥が快哉を叫ぶ。
禁苑の果ても果て、気に入りの岬に近いこの場所で、いつの時代かに打ち捨てられた鄙びた人工池を見つけたのは今日の昼すぎのことである。石で囲まれた方形をしたその池はもうすっかり干上がっていて、降り積もる土砂で半ば埋もれていた。池に接続している水路にはまだ水がちょろちょろ流れているが、石やら岩やらですっかりつっかえていて、溢れ出た水が池の周囲をいたずらに小さな湿地に変えていた。いつだったか、特に水気を好む品種だと浩瀚が図鑑を見ながら教えてくれた遅咲きの桜の古木が数本、おおらかに根をはって、蕾を膨らませた裸の枝を池にさし伸べている。
堆積物を掃除され、水が流れ込み始めた池は、ようやく本来の池らしい姿を取り戻しつつあった。午後中かかった仕事の成果にすっかり満足して、陽子は汗に濡れた額を擦りあげ、さらなる泥化粧を施した。見ろ、土木工事という趣味はこうして確かな達成感に満ちることができるんだ。『謎字遊戯』がいったい何だと言うのだ。言葉の欠片をくっつけて漢字を作って当てる遊び――景麒のおっしゃるところによると『謎字遊戯』というそうだが――が王たる者の趣味にふさわしいと仏頂面の麒麟に申し渡されたところで、こちらも仏頂面になるだけだ。趣味なんてものは好きだからやるもので、押し付けられるものではないはずだ。
朝議が無事にはけたあと、こちらの文字にだいぶ慣れてきて奏上なども自力で読み下すようになった女王に、丈高い優美な麒麟はつと身をかがめると、褒め言葉ひとつ、笑顔ひとつよこさぬまま、そろそろ主上も趣味をお持ちくださいませ、と単調にのたまった。
――趣味?
――王や教養の高い仙にふさわしい趣味の代表格といえば『謎字遊戯』などがございます。今日の昼以降は休養日ですし、さっそく始めてみるのはいかが。
――始めるって何をだ。
――だから趣味を、です。
景麒によれば、『謎字遊戯』というのは存外に単純で、バラバラに分解された漢字の欠片を寄せ集め、もとの文字を再構成するというだけなのだそうだ。単純ながらも深い教養が必要で、さらにはちょっとした頭脳のひらめきもいるということで、上質な趣味の部類なのだいう。
糞食らえ、と返したのはさすがに言葉の選択がまずかったかもしれない、と池の縁に腰かけて、くるぶしまで溜まった水をゆるゆると物憂げに掻き混ぜながら、陽子はちょっぴりだけ反省した。泥混じりに濁った水だけれども、水面はきらきらとさかんにさざめいている。このさざめくという漢字、確かあったっけなぁとぼんやり思う。水路から零れる飛沫の音が鼓膜に心地よく沁みわたり、汗ばんだ肌を涼風が冷ます。
けれども、久しぶりの自由時間、気ままに庭を散策でもして陽をたっぷり浴びて過ごそうと楽しみにしていたところへ突然、暗い室内で漢字をにらめっこしろと一方的に申し渡されたのはいささか業腹であった。あの麒麟はまことに四角四面で人の情というものに疎い。
かあ、と烏が鳴く声にふと顔を上げると、いつの間にやら物思いにふけっていたらしい。だいぶ傾いた太陽が、水を好むという桜の梢に引っかかるようにして、ぐずぐずとその輪郭を崩しつつあった。もう間もなく絢爛たる夕焼けが始まるだろう。陽子は裾をはたいてのろのろと立ち上がった。存外に水の流入が速いので、おそらく夜半には池の縁までいっぱいに銀色の水が溜まることだろう。桜の蕾をひとしきり撫でてから、泥だらけの女王は古池を後にした。