太子の緋桜
2018/05/19(Sat) 23:59 No.633
愛しい女は蓬莱生まれの胎果の王。好む花もまた蓬莱では春を告げる花。女王の国は春になると薄紅に包まれる。それは、桜、という花だった。
自国である奏にも桜があると知り、卓郎君利広は口許をほころばす。早春に開く緋色の花。房になって控えめに咲く小さな花は慶で見る桜とは趣が異なる。しかし、南国らしい鮮やかな紅は、愛しい女の髪を思い出させた。此度の訪問は、この花を土産にしよう。そう思い、利広は緋色の桜にそっと手を伸ばす。恋人の笑みを胸に抱きつつ、利広は蒼穹を駆け抜けた。
至高の身分を持ちながら、女王が己の望みを口にすることはなかった。恋人である風来坊の偶さかな訪れをも、ただ静かな微笑みで迎えてくれる。己の願いが叶うことなどない、と知っていたのだろう。だからこそ、利広はいつも愛しい女に同じことを告げるのだ。
「君はしたいようにしていいんだよ」
「――そういうわけにはいかないよ」
笑みを湛えた利広に、女王は困ったようにそう返す。そんな女王を、利広は優しく抱き寄せる。そして耳許で囁くのだ。
「したいようにすればいい、私だけは止めないよ」
ひととき僅かに眼を瞠る女王は、黙して儚い笑みを見せるのみだった。
久々に訪れた東の国。宮の主は、今日も美しい笑みで利広を迎える。手ずから淹れた茶を差し出しながら、女王は問うた。
「今回はどこを回ってきたの?」
「あちこち、だよ」
「そうだろうけど」
少し尖った朱唇を軽く啄むと、恋人は苦笑を零した。利広は笑みを向けて自慢する。
「今回一番の収穫はこれだよ」
一枝分けてもらった緋色の桜を差し出すと、女王は歓声を上げた。これも桜と分かるほど女王は詳しいのだ。利広は笑みを深めた。
「寒緋桜、というらしい。南国の桜だよ」
「一度見てみたいと思っていた。ありがとう!」
緋色の桜を手に取ると、女王はな笑みを見せた。早速下官を呼び寄せる。きちんと活けられた緋桜は鮮やかに美しかった。
二種類の緋桜に見守られ、利広は土産話を続ける。花の話題はもうひとつあり、恋人はそちらの話題にも興味を示した。南国特有の花である。
「聞いたことがあるよ。咲いてから一夜で散る花だよね?」
「そう。よく知ってるね」
「綺麗な花らしいけど、なかなかお目にかかれないって」
「そのようだね」
利広は軽く笑う。花の名は月下美人。月来香とも呼ばれ、香り高い大輪の白い花を一夜限り咲かせる。姿は見えねど香りでその存在を知らしめる美しい花だ。
「でも、見てきたんだよね?」
「自国の名花だからね」
恋人の問いに、利広は笑みを湛えて答える。奏ではそれなりに見かける花だ。名所も把握している。
「今度、見に行こうか? 案内するよ」
気軽に誘いをかけると、女王は小さな溜息をついた。利広は少し翳りを帯びた美しい顔を覗きこむ。眼を上げた女王は、その澄んだ翠玉の瞳でじっと利広を見つめた。美しい翠の宝玉は、見る者を惑わせる。利広は苦笑を浮かべて問いかけた。
「どうかした?」
景王陽子は武断の王。内乱も自ら鎮めた女王は剣の腕も確かで、それ故に気軽に微行を繰り返していた。護衛の使令もいる。半身の宰輔は渋い貌をするが、時折ふたりで出かけることもある。だからこその誘いだったのだが、恋人は黙して利広を見つめるばかり。このままでは呑まれてしまう。利広は苦笑を深め、そのまま顔を近づけた。すると恋人は、やおら細い手を伸ばし、利広の頬を軽く抓る。眼を瞠った利広に、女王は小さな声で囁いた。
「少し……羨ましくなっただけ」
あなたはどこへでも行けるから、と続けた女王は儚く笑む。少女の憧憬と老婆の諦観を同時に見せるその貌。今にも消えそうな風情は、利広を釘付けにした。
慶東国と奏南国は決して近くはない。常であれば、国交が開かれることもないし、王族がこうして私的に交流することもないだろう。しかし、諸国を放浪する太子は宮城を抜け出し微行を繰り返す女王とめぐり会った。それは少なからぬ縁があったのだ、と利広は思っている。まさしく、天の配剤だ、と。
最初の出会いから、もう何百年も経っている。あのとき鮮烈な暁の光を纏い利広を魅了した女王は、仄昏い暮の光を帯びてなお利広を惹きつける。しばし沈黙し、利広はおもむろに口を開いた。
「どこまでも行くよ、君の代わりに」
「――私がいなくなっても?」
女王は薄く笑い、重い問いを軽く投げかけた。淡い笑みが、女王をいっそう儚く見せる。奏南国を支える一柱でもある利広は、笑みを引いて即座に応えを返した。
「君がそう望むなら」
望めば何でも叶う身分を持ちながら何も望むことない女王。そんな愛しい女が口にした願いならば、叶えてみせる。利広は強い意志を湛えて恋人を見返した。
利広の答えは意表をついたようだ。女王は大きく眼を瞠り、ひととき絶句した。
「――冗談だよ。一国の太子がそんなに軽々しく頷くものじゃない」
慌てたように首を振る女王を、利広はきつく抱きしめる。この細い身体で一国を担う女王を。
「約束するよ」
万感の想いを籠めて言葉を紡ぐ。そして利広は失言を恥じる女王に深く口づけた。
2018.05.19.
切ないですね 瑠璃さま
2018/05/20(Sun) 20:48 No.667
うわぁぁん! 寒緋桜と月下美人なんて幾らでも見せて差し上げましょう!
と思ってしまいます。わたしは見慣れちゃってるからなあ。
でもやっぱり月下美人は難しいかなあ。
あ、焼酎漬けではってそういう問題じゃないですね(汗)。
色々な思いを背負ってなお軽やかにいられる利広が本当にすごいと思います。
時間があれば寒緋桜と陽子さんを描きたかったです。
切なくも素敵なお話、ありがとうございました!
ご感想御礼 未生(管理人)
018/05/21(Mon) 01:15 No.692
皆さま、末声連作の一編に温かなご感想をありがとうございました。
葵さん>
白ごまノンオイルドレッシングはかなり好みかもでございます(笑)。
利広と陽子主上の立場の違いに言及くださりありがとうございます。
そう、利広は王でも臣でも友でもない者として陽子主上を愛することを選びました。
いつも傍にいることは叶わないが故の約束でございます。
そして王さまに「好きにしていいんだよ」と言えるのも自分だけと自負しております。
陽子主上はそんな利広に救われており、利広を必要としているのでございます……。
お察しくださりありがとうございました。
ひめさん>
私もあなたに利広を好いていただける日が来るとは12年前には思いませんでした(笑)。
利広の気の長さの勝利でございますね!
怒涛の更新につきましてはほんとうに申し訳なく。
一日一作どころか最終日に三作ですものね……(苦笑)。
それでもご覧になってお声を上げてくださりありがとうございました!
文茶さん>
この頃の陽子主上は登極後間もない時のように気軽にお忍びできなくなっております。
もうそんな気力もあまりないのでございましょう。
自分よりも年上の利広が未だ軽やかに世界を飛び回る様は
陽子主上にとって羨ましいことなのだと思います。
ただそれは、利広が「王族ではあるけれども王ではない」ことに起因すると
解っているようで解っていないのかもしれませんね……。
利広は自分が陽子主上に必要な人間だと心得ております。
そして陽子主上も長い年月をかけてそれを受け入れました。
尚隆登遐後の慶の安寧は利広のお蔭が大きいと思われます……。
瑠璃さん>
わあ、南国の方はどちらも珍しくないのですね! わあ!
ああ、もっと早く出していれば寒緋桜と陽子主上が見られたかもしれないのですね……!
惜しいことをした! 絵師さまの絵心を動かせて光栄に思います〜。
ネムさん>
出そうか出すまいか悩みましたが勢いで出しました(笑)。
北の桜も終わった頃に南の桜を出してしまいました。
南国の太子は軽やかでございます。その風を留めないのが陽子主上でございましょう。
いつか、利広は月下美人を見せながら、かの方の話をするのかもしれません……。
「太子の緋桜」は利広が陽子主上と交わした約束を語るお話でございました。
「人として生きて死ぬ」という願いを叶えた浩瀚に対し、
「仙として世を見守る」という願いを叶えた利広。
昨年出した「太子の来訪」での浩瀚と利広の連帯感はこんな感じで作られたのでした……。
末声語りにお付き合いくださりありがとうございました。