その花を散らすのは貴方
饒筆さま
2018/03/17(Sat) 15:58 No.8
絶好の花見日和であった。
気まぐれな風もなく、華やかな花枝越しの空は快晴。麗らかな春の陽が酒杯に踊る漣を煌めかせ、くいと呷れば、酒精と花々が醸し出す馥郁たる香りにすっぽり包まれて、華やかな「春」そのものに酔うことができる。
「美味い……!」
尚隆は満悦の息を吐いた。酒が進むのも仕方あるまい。
白昼堂々すっかりとぐろを巻いている主に付き合いきれぬと思ったか、六太は小さな鼻をつまんでさっさと席を外して行ったが(ガキは草団子でも喰っていろ)、もう一人の子供、いや小娘は珍しく俺の傍らを離れない。
「今日は飛ばし過ぎですよ?もう、すっごくお酒臭いです」
遠慮のない小言をグサグサ挟みつつも(陽子よ、おまえは俺の家人か)、殊勝に白酒を注ぐ手つきが意外にこなれていて――ふうん、と尚隆は鼻を鳴らした。
これまでは武断の女王らしくテキパキと隙の無い所作に清々しい印象を抱いてきたが、今日のこの酒器に添えた手は今までになくたおやかだ。勇ましい剣だこは相変わらずだが、丹念に整えた爪が真珠のように光っている。そう言えば、お仕着せ感の強かった化粧も本日はよく馴染んで、陽子の本来の美貌を清潔ななまめかしさで彩っていた。
なんとも言いようのない感慨が湧き、美酒の後味が変わる。
「…………」
「な……何ですか?」
陽子が頬を強張らせ、やや身を引いた。
つい、まじまじと見つめていたようだ。
「いいや」
尚隆は頭を振り、トウテツ紋の銀の酒器を取った。
「ま、おまえも飲め」
そして、まだ半分ほど残っている陽子の酒杯に並々と返礼してやった。
「わわっ」
陽子は僅かに膨らむ酒面を震わせながら慎重に杯を持ち上げ、そうっとその紅唇を寄せる。
酒杯に添えた指先の、少し突き出た唇の、そしてほんのり色づく頬の、初々しい艶に再び目を奪われた。
これは、どうやら……しばらく見ぬうちに、小娘は「小娘」ではなくなったのではないだろうか。
――なんと。
ただの直感だが、あながち間違っていない気がする。尚隆は内心ふかく嘆息した。
正直、万事勇ましい陽子にこんな不埒な感慨を抱いたのは初めてだ。が、確かに陽子とて良い年頃なのだから、艶事のひとつやふたつあったところで何の不思議もなかろう。
なぜだか天を仰ぎたくなって花枝に目を向ければ、満開の桜は早くもその花片をひらりと落としてきて――尚隆はふと、黴臭い記憶の底で父の吟唱が響くのを聞いた。
――久方の 光のどけき春の陽に、
「……しづ心なく花の散るらむ、か……」
「は?」
気の利いた(つもり)の呟きを胡乱な顔で聞き返され、尚隆は憮然として言い直す。
「咲いたばかりの花が、もう落ちたのかと嘆いておるのだ」
「何の話です?桜はまだ散っていませんよ??」
それなのに、当の陽子はまだキョトンと目を見張って首を傾げている。
その呆け顔はよくよく見慣れたおぼこさで、
――やはり小娘は小娘だな。
安堵の混じった可笑しさがこみ上げ、尚隆は喉を鳴らして己を笑い飛ばした。
それから、意地の悪い笑顔で翠の瞳を覗き込む。
「まだまだ無粋だな、陽子……桜の話ではない。おまえの話だ。おまえを手折ったのがどこのどいつかは知らんが、返歌の作法くらい、そいつに教えて貰え」
「えっ?」
案の定丸い目を白黒させた陽子を捨て置き、尚隆は酒器を掴んで、ふらりと立ち上がる。
「えっ?え?……えええっ?!」
ようやくその意味を察したか、陽子は耳まで真っ赤になって叫んだ。
「わ、私、手折られてなんかいませんッ!!!」
振り向いた尚隆が広い背中越しに明るく笑った。
「ああそうか。まあ、がんばれ」(一周回って生温かい目)
「が、がんばれって……な、何を……??」(しどろもどろ)
「そこまで言わすな」(輝く木漏れ日スマイル)
本日はもう、絶好の酒宴日和だ。
今頃、陽子と杯を交わしたい奴はさぞかしやきもきしていることだろう。人生の先達としては若い者に気を遣って、気の置けない古参どもに混じって飲んだくれることにしよう。
「ちょ、ちょっと待ってください!誤解です!勘違いですってばッ!」
気色ばんで追い縋る陽子に背を向け、尚隆は悠然と宴席を巡り始めた。