その花は散らない
饒筆さま
2018/05/04(Fri) 12:54 No.507
日は暮れ、白亜の王宮は夜の帳に包まれた。だが闇は浅く、星は目覚めたばかりで、夕餉にはまだ少し早い。そんな、どこか落ち着かない刻限だった。
台輔より言伝があり、急ぎ足で御前へ向かう李斎は、路寝の一角で近衛隊と出くわして互礼を交わした。
彼らは驍宗の直参しかも古参の者が多く、李斎に向ける目は一様に冷たい。それはそうだろう。田舎の女将軍が突如取り立てられて六将軍の末席に就いた。しかもその女は台輔や主上と個人的な親交があるらしい――となれば、彼らが面白いはずがない。それどころか、しばしば下卑たニヤケ面あるいは好奇の視線を向けてくる輩までいる。
承州では女の身を揶揄されたことなど無かった。それだけ李斎の勇猛さが知れ渡っていたからだ――だが白圭宮ではまだ無名。しかも厄介なことに、いささかの後ろ暗さも無いとは言えない。実際、李斎は驍宗と一夜を共にしてしまっているのだ。それが悔しさに拍車をかけていた。
李斎は黙然と歩き出す。
……あの夜のことは忘れる。李斎はそう決めていた。登極前、しかも遠い仙境にて鬱屈の溜まる状況に追い込まれて為したことなど、驍宗も忘れたいに違いない。それに李斎とて、驍宗の「女」として傍に置かれたのではなく、将軍としての才を見込まれて招聘されたのだと自負したかった。
明るい月に皓々と照らされ、整然と敷かれた石畳が青白く光っている。
夜空へ融ける甍の藍、反対に浮かび上がる壁の白、鈍く光る石畳。真っ直ぐ前へ伸びる己の影。
処々に配された瀟洒な庭院が夜陰に沈む中、ますます強調される無機質な美が、荒ぶる李斎の気を徐々に鎮めてくれた。
いとけない台輔は壮麗過ぎる寝殿を厭い、庭院の奥にあるこぢんまりとした離れで起居なさっている。驍宗が厳選した直臣が護るその離宮はまるで小さな城であったが、一旦その内に入れば、どこかほっとする温かな雰囲気が醸されるよう細心の注意が払われていた。
全ては台輔に心穏やかに過ごしていただくために――無論、李斎もその為にここへ日参している。
いつもの、露台のついた居間の前で声を張る。
「李斎です。只今参上いたしました」
すると、手をかける前に扉が開いた。
「李斎!もう、待ちくたびれましたよっ」
開いた扉の陰から跳び出したのは満面の笑みを浮かべた少年で、彼は鋼色の髪を揺らして李斎の腰に縋った。
どれほど幼くともこの御方は天の御遣い、戴国至高の御一方だ。頭ではわかっている。わかってはいるのだが、かように愛らしい御姿を拝見するとうっかり絆されてしまって、つい、李斎の頬は緩んでしまう。
「お待たせして申し訳ありませんでした」
李斎は膝をつき、小さな台輔のつぶらな瞳を見つめて詫びる。すると泰麒はすこしはにかんで、
「今宵は皮甲(よろい)を付けていないんですね。官服でも李斎は凛々しいです」
と、誇らしげに褒めてくださった。
なんという僥倖か。
「ありがとうございます」
気苦労や苛立ちなどいずこかへ吹き飛び、李斎も心から微笑み返す。そのとき、
「蒿里」
衝立の向こう、奥の間から沈着な玉声が届いて、李斎は再び背筋を伸ばした。
一方の泰麒は屈託なく
「はい」
と返事して李斎の手を取る。
早く早く、と急かされるままに奥へ進めば、御二方で茶話でも楽しんでおられたのだろうか、艶やかな円卓には色とりどりの干果が盛られ、乳茶の優しい香りが満ちていて、いささか寛いだ姿の驍宗が鷹揚に腰かけていた。
「失礼いたしました。主上もおいででいらっしゃいましたか」
さっそく跪礼を捧げようとする李斎を、驍宗は微笑とともに制する。
「いや、そう畏まらなくていい。たいした用ではない――蒿里にせがまれたついでに、李斎にも見せたいものがあってな。蒿里の名で呼んでもらった。驚かせたのならすまない」
笑み交じりの朗らかな口調とは裏腹に、李斎はかるく肝を冷やす。
――台輔の名をお使いになったのは、もしや、主上も噂を気になさっておられるからでは……?
「いいえ。お心遣い痛み入ります」
ヒヤリとしながらも、李斎は殊勝に頭を垂れた。その袖を、泰麒の柔らかい指が掴んでつんつん引いた。
「あのね、李斎」
うふふ。泰麒は口元をほころばせ、上機嫌で切り出す。
「主上は、常世で一番見事な桜をお持ちなんですって」
「サクラ……ですか?」
「ああ。その名に聞き覚えはないか?」
さりげなさを装いつつも、どこか非常にもの言いたげな声音が引っかかった。
――サクラ……さくら??
李斎は脳裡を探りつつ、小首を傾げる。そんな李斎に赤眼を留め、驍宗は畳み掛ける。
「蓬山で共に見ただろう――まるで雲霞のように、枝という枝に薄紅の花を咲かせる木を」
――蓬山?薄紅の木花……?
はっ!!!
李斎は息を呑む。
何もかもが麗しく、微風さえ甘い仙境の夜更け。夢幻のような花天蓋の向こうに揺れる、欠けた月。黙り込んだ馬頭琴。その代わりに静寂を破るのは、押し殺した声と乱れた吐息。止むに止まれぬ衝動をぶつけ合う中で、吐露された本心――こんなときに白状しても信じてはもらえぬだろうが、俺は、貴女が俺を知る前から貴女を知っていた……正直に言おう。惹かれていた。李斎、おまえは美しい。
不意にあの囁きが蘇り、ドキリ。心臓が強く脈を刻む。
こちらを絡めとるような驍宗の視線をますます強く感じて、李斎はさっと睫毛を伏せた。
「忘れ難い花だ……とても美しかった」
万感の籠った、力強い断定。
「……そう、でしたね……」
この流れは拙い気がする。李斎は目を伏せたまま、賢明な逃げ道を探す。
助け舟はあっさり到着した。
「ええ〜っ!そんなぁ、お二人だけでお花見なさったんですか!」(むむぅ!)
突如、ちいさな拳を振ってむくれる泰麒に、二対の目が点になる。
「蓬山に桜が咲いていたのなら、僕も見たかったです。蓬莱人はみんな桜が大好きなんですよっ。いつ、どこで見たのですか?李斎?」
「え、えっと……」
ふくれ面の泰麒はお構いなしに迫るが、動揺に次ぐ吃驚で、李斎はとても言葉が浮かばない。ただただ焦って冷や汗をかく李斎を見かね、くつくつ笑いだした驍宗が割って入った。
「さあ、いつだったろう。狩りの途中で見かけたのではなかったか」
「そ、そうです。確か、狩りの途中で……」(冷や汗たらたら)
「僕がご一緒した時は桜なんかありませんでしたよ??」(むすっ)
「ああ、あの時とは方向が違っていたのだろう」(しれっ)
「……そうですか。残念です……」(しょぼーん)
一転してしょげかえった泰麒が狭い肩を落としたため、驍宗は腕を開いて泰麒を招いた。泰麒は素直にトコトコ傍寄り、その腕の中にすとんと収まる。
「そうか。蒿里もそれほど桜を気に入っているのか。そうとは知らず、済まなかった」
項垂れ気味の泰麒を包んで慰めながら、驍宗はおもむろに一本の皮帯を広げる。
「さあ約束の桜だ。蒿里」
それはこの上なく艶やかな上質の皮に、燻し銀の彫像を配した見事な逸品だった。鬣の一本一本まで緻密に彫られた悍馬が群れを成し、豊かな緑野を勇ましく駆けている。そして、凛と顔をあげた馬たちの行く先には、今を盛りと咲き誇る桜の大樹が――
自然と驚嘆があがる。
「わあ凄い!まるで生きているみたいです!」
泰麒はますます丸くなったその双眸をキラキラ輝かせ、
「本当に……今にも動き出しそうです」
李斎の目は銀の悍馬に吸い寄せられて離せなくなった。武芸一本で美術工芸にはさっぱり疎い李斎にも、その凄みが伝わるほどの神技だ。
「これは氾王から即位の祝いに贈られた帯だ。意匠の希望を聞かれたので、馬と桜を所望した――どうだ蒿里、範の技術は」
「とっても綺麗でかっこいいです。常世で一番見事な桜って、これなのですね」
「ああ、そうだ。桜は春に咲く。だからこの馬たちは春に向かって駆けているんだ。いや、春を迎えて行くところだと言った方が良いな」
「それは楽しそうです」
聡い泰麒はにっこり笑んでから、すこし口を噤んだ。
「どうした?蒿里?」
驍宗に問われても、泰麒は返事を渋り、李斎へ縋るような目を向ける。
李斎も泰麒の懸念を察した。
「畏れながら主上……おそらく、台輔は桜という『散る』花を御身に纏うことをご心配なさっておられるのではないかと……」
「そうなのか、蒿里」
大きな目を見張り、泰麒はこくんと頷く。
「ならば心配は要らぬ」
驍宗は自信たっぷりに破顔した。
「彫った桜は散らない」
『あっ!』
とんちの効いた結論に、泰麒と李斎は同時に反応し、互いの声に驚いて再び顔を見合わせた。自然と笑みがこぼれる。
「そっかぁ、そうですね!絶対に散りませんね」
「なるほど。申し訳ございません。思慮が足りませんでした」
ふふふふふ。一気に場が和み、泰麒が銀の桜をよく見ようと身を乗り出したところで、驍宗は李斎に目を据えた。
「本当に大切な、忘れ難い花なのだ。わざわざ彫って留めて、身に付けたくなるほどに」
その気迫に圧され、李斎も視線を逸らすことができない。
「だから、ぜひ李斎にも見てもらいたかった」
紅い瞳を焦がす熱に、こちらまであてられてしまいそうだ。
――あの夜のことは忘れようと決めていたのに……。
李斎は黙り込む。
もちろん、一武人として活躍の場を与えられたことは何よりの誇りで誠心誠意お仕えしたいと思っているし、驍宗は身命を捧げる価値のある主君だと心から信じている。ただ、女としての自分まで所望なさるとは想定外で――しかも、既に逃げ道など無さそうなのはどういう訳なのか。(滲む冷や汗)
それなのに、尚。
李斎の戸惑いを察し、視線はひたと据えたまま、宥めるような或いは誘うような笑顔を浮かべる驍宗に抗いきれない自分がいる。
――いつの間に……どうして私はこんなに主上に囚われているのだろう……?
胸が詰まって息苦しい。
本当に、何もかも敵わない御方だ。
李斎はまるで小娘のように頬を染めて俯くしかなかった。(姐さんカワイイ!)
<了>