緋桜の失言
2019/05/24(Fri) 23:53 Home No.626
「君はしたいようにしていいんだよ」
風来坊の恋人は会う度にそう告げる。対する陽子の答えも常に同じだ。
「――そういうわけにはいかないよ」
陽子は王だ。王がしたいようにしては国が乱れるだろう。自らを律し、永く生きること。そう心掛けて幾星霜、したいことなどすぐには思い浮かばないし、それでよいと思ってきた。けれど。
慈愛に満ちた笑みを湛えた利広は困惑する陽子を優しく抱き寄せる。そして耳許で囁くのだ。
「したいようにすればいい、私だけは止めないよ」
臣でも友でもない唯一のひとは、眼を瞠る陽子を温かく包みこむ。陽子は淡い笑みを浮かべた。分かっている。ほんとうの願いなど、叶わぬ夢のようなものなのだ、と。
「やあ」
春風のように軽やかで暖かな声に顔を上げると、風来坊の恋人が笑みを浮かべて入ってくるところだった。久しぶりの訪れに、陽子は笑みを浮かべて立ち上がる。丁度仕事の限りもついたところ、陽子は手ずから茶を淹れて賓客をもてなした。
「今回はどこを回ってきたの?」
「あちこち、だよ」
「そうだろうけど」
投げかけた質問に軽く返されて、陽子は唇を尖らせる。利広は楽しげに笑うと陽子の唇を啄んだ。思わず苦笑を零せば恋人は楽しげに土産を取り出す。
「今回一番の収穫はこれだよ」
「わあ、緋桜だね」
小さめの花房を幾つもつける鮮やかな緋色の桜。南国にしかないと言われる緋桜だ。陽子の歓声を聞いた利広は笑みを深めて説明した。
「寒緋桜、というらしい。南国の桜だよ」
「一度見てみたいと思っていた。ありがとう!」
素直に礼を言って陽子は緋色の桜を手に取る。早速下官を呼び寄せてきちんと活けさせた。笑みを湛えて見守っていた利広はゆったりと土産話を続ける。
「南国の名花はまだあるよ。たとえば月下美人」
「聞いたことがあるよ。咲いてから一夜で散る花だよね?」
聞いて陽子は瞳を輝かせる。香り高く咲き誇りながらも一晩で散ってしまう、儚くも珍しい花。利広は笑みを深めた。
「そう。よく知ってるね」
「綺麗な花らしいけど、なかなかお目にかかれないって」
「そのようだね」
「でも、見てきたんだよね?」
「自国の名花だからね」
恋人は軽く笑い、月下美人の話を続けた。
「別名は月来香。大輪の白い花を一夜限り咲かせる。姿は見えねど香りでその存在を知らしめる美しい花だよ」
そこに花が咲いているかのように眼を細め、利広は楽しげに誘う。
「今度、見に行こうか? 案内するよ」
そんな顔をするほど頻繁に見ているのか、一晩で散るような珍しい花を。陽子は小さな溜息をついた。
少し呆れながらも陽子はこの御仁が過ごしてきた悠久の時に想いを馳せる。陽子が産まれる遥か前から生き、世界を旅してきた大国の太子。風のように軽やかなこのひとを羨ましく思うことは初めてではない。
利広は不思議そうに陽子の顔を覗きこむ。陽子は奔放な風来坊を見つめ返した。望めばどこへでも行ける、自由な風。玉座に縛られた己とは違う。このひとを、風の漢を名乗り、自身も王だった在りし日の伴侶はどう見ていたのだろう。
風来坊が語るかつての北の大国の王は、風漢という通り名どおりの気紛れな御仁だった。利広には陽子が知っている伴侶とは全然違う顔を見せていたようだ。偶さかな邂逅の度に狐と狸の化かし合いの如き駆け引きを繰り返し、時に共闘して危機を凌いできた趣の違う風同士。けれど、片方は王、もう片方は王族ながら王ではない。あのひとは、軽やかなこのひとを、羨むことはなかったのだろうか。
「どうかした?」
利広は苦笑を浮かべて陽子に問う。答えを返すことはできなかった。声なく見つめ続けると、笑顔が近づいてくる。見つめる自由さえも奪われるのか。そう思うと少し腹が立つ。陽子は手を伸ばし、利広の頬を軽く抓った。そして、大きく眼を瞠る恋人に本音を返す。
「少し……羨ましくなっただけ。あなたは、どこへでも行けるから」
私はただ待っているだけ。
陽子は胸で密やかに呟く。もう、心の翼は萎えてしまった。昔のように、身軽に飛び立つことなどできない。頸木はそれほどまでに重い。けれど。
それは、利広のせいではない。風はただ吹きゆくだけ。そして、己は風にはなれないのだ。陽子は自嘲の笑みを浮かべる。単なる八つ当たりを詫びようと口を開きかけたとき、風来坊の恋人は限りなく優しい笑みを見せた。
「どこまでも行くよ、君の代わりに」
柔らかに胸を穿つその言葉。察しのよい春風は無邪気に心の隙間を吹き抜ける。胸の痛みに耐えかねて、陽子は小さく笑った。
悠久の時を行く旅人。風来坊を名乗りながらも、大国の太子は使命を帯びている。各地の情報を自国に持ち帰るという大切な役目を。陽子への土産話などそのついでにすぎないだろう。だから、利広と同様に軽く返した、つもりだった。
「――私がいなくなっても?」
陽子の問いに、恋人は笑みを引く。
「君がそう望むなら」
真顔の利広は即座にそう返した。虚を衝かれ、陽子はしばし絶句する。何ということを口にするのだろう。王でこそないが、長く続く大王朝を担う一柱である太子が。陽子は慌てて首を横に振る。
「――冗談だよ。一国の太子がそんなに軽々しく頷くものじゃない」
「約束するよ」
その言葉とともに陽子は恋人の胸に抱き寄せられた。吐息のような細い声。背に回る強い腕。どちらも利広の本気を告げている。言を翻すひとではない。景王陽子は己の失言に身を震わせた。そんな陽子に、恋人は熱く深く口づけるのだった。
2019.05.24.
ご感想御礼 未生(管理人)
2019/05/28(Tue) 23:48 No.777
ネムさん>
うわ、頭の中を覗かれたような気がいたします。王はいつか斃れる。
けれど国は王が斃れても残る……。
そう言う柵を超越している(ように見える)仙である利広に見届けてもらいたいという気持ちは
あると思います。そして利広はいつか置いて逝かれると思っている……。
自分で書いていながら、うわ〜と叫びたくなります(苦笑)。
王がなくなった後、残った家族といえば、梨耀さまのお友達、
臥山は芥沾洞の洞主が先々代の景王の母親だそうなので、
仙籍に残ることはできるのではないかと。
利広ならば本人が知らぬうちに天仙になっていてもおかしくはないですね(笑)。
ラストスパート頑張りました〜。ありがとうございます。
文茶さん>
「帰山で十題」の「月下美人」を思い出してくださりありがとうございます。
きっと月下美人を見れば利広はあの時を思い出すのでしょう。
陽子主上の反応を窺ったりもするかもしれませんね〜。
ほっぺつねつねをお楽しみくださりありがとうございます。
甘えているのだと思います。それだけ利広の存在は大きいのでしょう。
お二方、妄想を邁進させるご感想をありがとうございました。