薄紅の涙
饒筆さま
2012/03/22(Thu) 01:18 No.11
くるくるくる。花片が踊る。
麗らかな花見日和。愛らしい童女が漆の椀を差し出す。
「はい、どうぞ。おなかいっぱいたべてください!」
椀を満たすのは桜の花びら。
「おかずもたくさんあるからねっ」
敷布に並べられた御馳走は、蒲公英の主菜に野花の惣菜。先程は泥団子を作りたいと駄々をこねておられたが、お付きの乳母に窘められて諦めたようだ。
敬愛する上司夫妻は、くすくす微笑みながらこちらを眺めているだけ。・・・融通の利かぬ私に、幼いお嬢様のお相手など無理かと存じますが・・・。
致し方なく、恭しく頭を垂れる。
「それでは、ありがたく頂戴いたしましょう」
「ダァメ!おとうさまはそんなおじぎしないの!」
あどけない白桃の頬がぷうっと膨れる。困った。しかしその微笑ましさに、こちらの頬も緩んだ。
「左様ですか。失礼しました」
「あ。やっとわらった♪」
そしてお嬢様は、微笑む私の元へ駆け寄り、膝に縋る。大きな瞳を輝かせ、かわいい内緒話。
「ね、おじさま。大きくなったら、わたしをおじさまのおよめさんにして」
「おや、それは光栄ですね」
「ほんとうになりたいの!」
「畏まりました。それでは、楽しみにお待ち申し上げておりますよ」
「わあい。ほんとね? やくそくねっ!」
ああそれは。在りし日の戯れだったのに。
くるくるくる。花片が踊る。
蒲蘇の外れ、その名の通り急峻な岩崖を背に建つ佛巌寺は、芳国屈指の名刹だ。歴代の王に庇護され、特に信仰心の篤い先王は足繁く通った。
現在の仮王――月渓も、頻度は格段に少ないが時折思い出したようにふらりと訪ねる。
春先のある日。ふんわりと暖かな青空に雲雀が鳴く午後。
彼は文殊堂の裏に佇んでいた。老境にさしかかった大樹の、綻ぶ様子も無い花芽をただじっと見つめている。
くるくるくる。花片が踊る。
淡い月光にたなびく花霞。唐突に胸へ飛び込んできた温もりを抱き、自失する。
「約束よ。わたくしを貰って!」
鷹隼の一瓊。篝火に映える紫紺の瞳は、まさに天上の綺羅星だ。咲き初めた花の笑顔は瑞々しく華やかで、どこまでも穢れ無く美しい。ただ、言葉も無く見惚れる己を遠くで自覚する。
「憶えているでしょ? 貴方の妻になりたいの」
これは、美しい小悪魔の悪戯だろうか。
呆けた意識がゆっくり焦点を結び――私は首を横に振る。
「いいえ。身に余るお申し出でございますが、まだ早うございます。公主はこれから様々な者たちと出会います。あらゆる男性をご覧になって、それでも拙をお選びになるのでしたら喜んでお受けいたします」
――まさか、そのようなことにはならないと存じますが。
柳眉が跳ね上がった。初々しい媚態は、瞬く間に勘気にすり替わる。傷ついた渋面。
「嘘つき!!」
どん、とこちらを突き飛ばし、公主はもと来た路を駆けてゆかれた。
――これで良いのだ・・・。
ああそれは。在りし日の幻だったのに。
くるくるくる。花片が踊る。
背後で、若い侍官が伏礼した。
「月渓様、失礼致します。太宰より荷と言伝をお預かりしてまいりました」
「小庸から?」
月渓が振り返る。
「はい。慶国より貢物が届いたそうにございます」
「慶か・・・祥瓊殿が今年も苗を送ってくださったのか」
「左様でございます。それと、こちらの箱を」
両手に載るほどの紙箱を受け取る。斑のある薄紅の表紙が、なんとも優しく上品だ。
蓋に書かれた伝言はたったの一行。
『今年、ようやく芳の桜が咲きました』
懐かしい手蹟。喜ばしい報せ。月渓の口元が綻ぶ。
――こちらの桜は小振りだし色が淡すぎて、なんだか寂しいのです。芳の桜を分けていただけませんか。
苗を送ってくださった御礼にと、求められるままに贈った桜枝は、遠い慶の地で根を下ろしたようだ。
こちらの桜は亡き主を慕い、花芽が付いても咲くことが無いというのに。
「実は、その箱には呪がかかっておりましたので、太宰が玄師に検査させておりました。が、特に危険はないそうです」
淡々となされた説明に、月渓が苦笑する。
「小庸め、公主が罠を仕込んだとでも思ったか。まあ、私は命を取られても仕方の無い身だが」
「何をおっしゃいます」
侍官が盛大に眉を顰めた。この者はだんだん小庸に似てきたな。
月渓は機先を制して反論を封じる。
「冗談だ。もう責を放りだしたりはしない。第一、祥瓊殿がそんなことをなさる筈がなかろう」
そして紙箱を開けた。
旋風が天へ昇る。一瞬の驚嘆の後、ゆっくりと降ってきたのは薄紅の花・花・花――。
くるくるくる。花片が踊る。
白石の床に散ったのは無数の血飛沫。至高の命を吸った直刀が重い。
肉親そして台輔の死に様を目撃した公主は青ざめ、血塗れの私が前に立っても微動だにしなかった。
「峯王公主、孫昭、汝を仙籍より削除する」
衝撃と恐怖に凍てついた美貌が、みるみる絶望の色に染まる。
「やめて、・・・お願い、それだけは・・・」
胸に迫る感情を押し殺す。
公主の不明を責めることは容易い。だが、ここまでちやほやと囲い、綺麗な人形のように甘やかしてきたのは誰だ? 自分とて、公主に民の苦悶を目の当たりにはさせなかった――させるべきだったと後悔した頃には、既に手遅れだった。
せめて生きて、更生を図っていただきたい。貴女にはまだ未来がある。
かける声を失い、背を向けた。血を吐くような叫びが沁みる。
「――殺してちょうだい! わたくしも!」
ああそして。在りし日は無になったのに。
くるくるくる。花片が踊る。
桜の雨をしばし楽しんだ。
ふと、空箱に目を落とせば、その底にまた文が在る。
『あれから、いろんなことがありました。いろんな方に会いました。いろんなことを考えました。
それでも・・・貴方を忘れる日は、一日たりともありませんでした。
あるときは貴方を憎み、呪いました。あるときは己の不明を恥じ、身を擲って故国の空へ許しを請いました。そして全ての激情が去った今、胸に残ったのは――贖罪の決意と、ただ貴方に会いたいという切なる願いだけです。
寂寥を慰める為にいただいたこの桜も、見る度に会いたくて、苦しくて、涙が止まりません。
私は罪びとです。きっとこんな未練を抱いていることさえ罪なのでしょう。
けれど。もしあの約束を憶えておられるのなら――どうか、もう一度御返事をください。そして、許されるのなら、たとえ会えなくても心だけは添わせてください。
私は今も、貴方を愛しています――』
微かに震える文字。隠しきれぬ落涙の跡に、ひとつ、ふたつと花びらが添う。
なるほど。この桜の雨は、公主の涙であったのか。
余韻を刻むために、目を閉じた。深く、深く息を吐く。
返事はひとつしかない。
この感傷を愛と呼ぶことが許されるのならば。その証に、今度こそ別れを告げよう。
柔らかな微笑を浮かべ、霞んだ空を仰ぐ。
「約束など忘れました・・・どうかお幸せに」
薫風よ、この呟きをあの方に届けてくれ。それだけでいい。
――貴女には未来がある。これから迎える春を、ゆめゆめ無駄になさいますな。
身を切るような恋文に蓋をする。
そしてその箱を抱えたまま、咲かぬ桜に背を向けた。
<了>