荒れ地に降る花
鷲生智美さま
2012/04/11(Wed) 22:40 No.437
李斎と泰麒が承州のさほど高くない山から下りると、そこには、かつて人々が暮らしていた村の痕跡が残っていた。
ただ痕跡だけが。
元は建物を支えていたのであろう材木が、屋根も壁も失い、途中で折れ、火に焼けて黒こげになった状態であちこちに突っ立っている。
人の住まいであったであろうところには瓦礫の山ができている。壁や竈に使われていた大小様々な石が崩れ落ち、地面に転がっている。甕や土鍋や食器であったものの破片がそこかしこに散らかっている。
服だったのが寝具だったのかわからないボロボロの布切れが、風雨に晒されすっかり色褪せてあちこちにひっかかっており、風になぶられ弱々しくはためいている。
そして、廃墟となった村の外れで大きな桜の木が満開を迎えており、時折桃白色の花びらを散らしていた。
李斎は忌々しい思いでその桜を見た。辛く苦しかった冬が終わり、折角雪も溶けて無くなった。それなのにこの木はまた、雪に似た花弁を振り積もらせる。ここに住む人々を悲劇が襲ったのに、我関せずと言わんばかりに自分だけは美しく咲き誇る――。
泰麒はそんな李斎を見て悲しそうに眼を伏せた。自分が成獣になって蓬莱から帰ってくると、李斎は彼の知らなかった表情を度々浮かべるようになっていた。
彼が幼かった頃、彼女はいつも優しく穏やかだった。こんな風に何かに向かって憎々しげな顔をすることなど考えられなかったのに……。
「李斎、李斎は桜が嫌いですか?」
「嫌い、と言いますか……」
突然に訊かれた質問に少し言葉を詰まらせたものの、李斎は憤懣やるかたないといった風に続けた。
「天の仕打ちが憤ろしいのです。この桜は昔も今も変わることなく、花を咲かせている。それに対し、この村の無残な様はどうです? 愛でる人々の苦労も知らず、桜はこの春も咲く……。無情だと思うのです」
「無情って、桜が、ですか?」
泰麒はつい苦笑してしまう。李斎がそれほど戴の窮状を憂いているからこその言葉ではあっても、これでは八つ当たりに近い。このように桜にまで憤っているのは李斎にとってよくないと、泰麒は思う。
桜の為に、そして李斎の為に泰麒は言葉を探し始める。
「……桜を咲かせるのは、確かに天ですが……。でも、李斎、村を作るのは人ですよ」
泰麒は、自分の言葉に力を得たように続ける。
「そう、村を作るのは人です。人が戻ってきて、瓦礫を整理し、小さな家を建てる。日々一生懸命に暮らして、余裕ができたら今度は大きめの家を建てる。井戸も掘りなおして、その井戸端で女たちがお喋りするようになって……その頃には、この桜は春どのように咲くのか村人たちは楽しみにするようになるでしょう」
「台輔……」
「きっとそうなります。李斎。村が再び興り、また春の桜を愛でる日が必ず来ます。その為に僕は蓬莱から帰って来たのだし、その為に李斎は命がけで慶へ渡ってくれたのでしょう?」
「ええ……」
まだかすかに憂いを含む李斎の顔に、泰麒は明るい声をだす。かつてと違って、相手の気を引き立たせる役割が逆転していることに一抹の寂しさを覚える一方で、これからは自分こそが李斎を、王を、民を励ましていくのだと身の引き締まる思いを覚えながら。
「僕達が戴に平和を取り戻すのです。そして、僕達、人、が暮らしを取り戻すのです。いや、取り戻すという言い方では足りない。新たにもっと良い暮らしを創り上げるのです」
李斎は眩しいものを見るかのように目を細めた。確かに泰麒の表情からは、若者特有の輝きがその光を放っている。ああ、台輔は今、大人へと羽ばたこうとしている。その翼に戴の未来をのせて――。
「李斎。天は季節を運んでくれますよ。毎年春は巡り来て、桜は花を咲かせて人々の目を楽しませてくれます。ずっとこれからも。人の力の及ばぬところで時間は過ぎるけれども、それは人にとって自由な未来があるということです」
李斎は顔を伏せて「ええ」と答える。けれども泰麒を直視できない。明るい未来を語るには、失われたものはあまりに大きく、行く手に待ち構える困難も多い。李斎はそれを知っている。
でも。
李斎はふと屈んで、瓦礫の上に雪のように積もった桜の花弁を取り上げた。それは雪と違って指先で溶けるようなこともなく、しっとりとした感触があり、春風を含んで微かながら温もりを感じることもできた。
「そうですね、台輔」
李斎は、柔らかに青い空を見上げる。雪は過去のものとなり、今、春の花が風の中を舞う。
時間は流れる。人はまた集まり、力を合わせて、一歩一歩前に歩き続けることだろう。台輔のような恐れを知らぬ若者を先頭に。たとえ悲しみ苦しみを抱えたままであったとしても。
「行きましょう、台輔」
李斎の顔には、昔よく見たあの大きな笑みがあった。泰麒も微笑み返す。そして二人は桜を背に再び歩き始める。桜の大木が花を散らし、風が二人の背後から吹き、それに乗った花弁たちが二人に纏いつく。
「また来るよ。必ず」
泰麒は振り返ってそう言うと、再び前を向いて歩き続けた。