歌の情景 1 雲
ネムさま
2012/04/17(Tue) 23:06 No.588
“桜花さきにけらしな あしひきの 山のかひより 見ゆる白雲”
天空を刺し貫くように並び立つ険しい山々。しかし春分も十数日を過ぎた今日、金波宮を頂く一際高い堯天山とそれを囲む岩山の一群も、各々に霞か雲を纏い、長閑に春の日差しを浴びている。
少し靄った青空を何かが横切ったような気がした。鳥にしては翼が見えず、誰かが騎獣を駆っているらしい。堯天山近くの岩山の周囲を上下自在に巡る様は、まるで岩壁に纏いつく若葉や雲と戯れているようで、陽子は思わず窓から身を乗り出した。
しかし騎獣はすぐに岩壁の白い雲に隠れた。後ろから大僕に怪訝なそうな声を掛けられ、陽子は急ぎ窓から離れた。それでも麗らかな春の空は、目の奥から離れなかった。
外朝から燕朝に戻ると、何やら周りが騒がしい。駆け寄ってきた祥瓊から話を聞き、陽子も慌てて掌客殿へ向かった。途中、茶器を下げてきた鈴が笑いながら示した方へ小走りで赴くと、雲海に面した明るい露台から声がした。
「陽子もついに下まで降りて仕事を見るようになったか」
延王・尚隆の変わらぬ大きな笑みに、陽子も思わず笑みがこぼれる。
「知り合いにこっそり冬官府を案内してもらったんです。自分の王宮なのに、知らない所がまだたくさんあって」
「当たり前だ。俺は未だに自分の寝床だけしか知らん。ひよっ子のお前に抜け駆けされては困る」
陽子が言い返そうと身を乗り出すと、突然白い塊が目の前に差し出された。
「仕事熱心な景王に、雲を土産に持ってきた」
見るとそれは白い桜の花だった。一緒に芽吹いた若葉の緑が瑞々しい。
「来る途中脇見をして、雲の中と誤って崖に咲いていた花の中に突っ込んでしまった。折った枝に申し訳ないので、急遽景王への貢物になってもらった」
よく見ると尚隆の服のあちこちは綻び、括った髪の先に白い花弁が付いている。声をあげて笑った陽子だが、思わず「いいなぁ」と呟いた。すかさず尚隆が誘いかける。
「真面目なのはいいが、せっかくの春だ。雲の海の上にいるより、花の雲の上に行ってみないか」
陽子は一瞬躊躇ったが、すぐに先ほど見上げた春の空が甦る。
「では、更に真面目な我が宰輔にこの雲花を捧げて、説得してみましょうか」
“それは難問だ”と笑いながら、尚隆は陽子と一緒に歩き出した。
― 了 ―