雅なる迷夢の八重桜
空さま
2012/05/06(Sun) 17:30 No.897
これは赤楽始まって間もないころ、陽子がまだ常世に慣れることができず、かつて暮らしていた蓬莱との差を感じることもある、そんな時期であった。
陽子が勅命で新しく金波宮に招き、百官の長である冢宰職を命じた浩瀚と言う男がいた。
彼は、よく陽子の執務を支えた。
自分を任命した、見かけだけでなく本当に年若い少女王は、景王と言う称号等なくとも、十分に美しく、かわいらしく、光り輝いていた。まるで、春の日差しの様に。
執務中にも、一休みすると、浩瀚は陽子に蓬莱の話を求めた。彼女の心の内を知りたいと願ったからだ。職務上はもちろん、一人の男としても十分に興味のある事柄だった。
陽子は今日も、背筋と両腕を伸ばし立ち上がる。これからしばし休憩に入る様子を浩瀚は微笑んで見ていた。
「まだこの園林は寂しいね。いつ花が咲くんだろう?」
独り言とも、男に尋ねたともとれるような曖昧な言葉を、景王は冢宰に向かって紡ぎだす。今はまだ冬色の濃い時期であった。
「主上、園林の端に梅が花をつけております。すぐ、あちらにございます桃も花が咲くかと思われます」
「ああ、そうか。春だな」
穏やかな空気をかみしめるように、陽子が言うと、
「左様でございますね」
と浩瀚は軽い拱手をして同意した。
「梅、桃、とくれば、その次はやはり桜かな?」
「はい、桜ならば冢宰府に渡る途中の園林がきっと美しいでしょう。大きな木が何本か植えられておりますので」
「本当? もし咲いたら、見に行ってもかまわないか」
「もちろんでございますとも。主上は桜がお好きですか?」
「好きだよ。でも、蓬莱の思い出と通じることが多くて、実はあまり大きな声で言いたく無いんだ」
浩瀚は、軽く眼を見開く。
「そのようなことはございません。どうぞお心のままに、なさってください」
「そうか、うれしい。浩瀚、ありがとう」
そう言って、また陽子は執務をするために卓に着く。浩瀚は傍らに立ち、次の書状の説明を始めた。
それから、数日後の夜、浩瀚は冢宰府の奥で桓たいと酒を飲んでいた。酒の肴は、いつも物騒な話が多かったが、今夜は違った。
「へえ、主上がそんな雅なことをおっしゃったんですか?」
「ああ、桜の花を見ながら、皆で昼餉を召し上がりたいそうだ」
「そんな風雅なことはここ何年かやった記憶が無いですね」
「そうだな」
「御自分の親しい方だけでなく、下官も全部ですか?」
「ふむ、手の空いている者という条件は付いていたが」
「そりゃそうでしょうけど」
浩瀚はこの花見の宴で一つ叶えたい思いがあった。
――その時は、主上に襦裙を着ていただけないだろうか――
雅な提案には雅な装いを、この時は単純にそう思っていた。
浩瀚は、仕事の片手間に陽子に許可をもらい、人を使って御庫の中を調べさせた。桜の文様の襦裙が無いだろうかと。
慶はまだ貧しい。最も、浩瀚個人の資産は結構あったようだ。桜模様の襦裙を新しく作ることも経済的には可能だったが、作れるだけの職人がまだ慶には揃っていなかった。もっと国が豊かにならなければ、簡単にはできない。範国あたりで急いで作らせればよいのだろうが、他国に頼ったのでは己が悔しい。
そこで、女王が四代も続いている事実を逆手に取って、今までに作った物でも良いだろうと考えた。
桜は、ここ慶国でも美しい花の代表である。何枚かの襦裙が見つかった。
――今の主上なら、新しく作らないと言うことを却って評価していただけるかもしれない。そうすれば、宴を催す時にもすんなり着ていただけるのでは?――
浩瀚は、これらの襦裙をお召し頂ければ、主上はさぞかし美しいだろうと夢見た。咲き誇る桜をご覧になり、きっとお喜びになり、微笑んでいただけるだろう。そう思っただけで浩瀚は幸せであった。
月日は過ぎてゆく。やがて冢宰府近くの桜にも花がつき始めた。
「咲き出しましたね」
春も進んで暖かさが一層身体に感じられる。警護担当の左将軍の言葉は、浩瀚にとっては夢の行方を示すように聞こえていた。
浩瀚は、とりあえず冢宰府の下官と相談して、できるだけ大勢が昼餉に集えるよう調整した。緋毛氈でも敷きたいところだったが、華美は慎み御座を用意する。そして、景王に着ていただくためにと、御庫から探させた襦裙を持って内殿を訪ねた。
「これが桜の襦裙なのか?」
陽子は、嫌、というわけでもなく、あえて言えば不思議そうに浩瀚に問いかけた。彼は、やはり昔の物ではまずかったのだろうかと不安になる。思いが強すぎて、迷い始める自分をもう一人の自分が見ているようだった。
「お気に召しませんでしたか?」
と問う浩瀚の瞳を見て陽子は、視線をずらし寂しそうに笑った。
「そんなことは無い、ありがとう。そうだな、この中から選んで着て行くことにするよ」
「ありがたき幸せ」
「なんでも、御庫の中から探してくれたんだって? 慶の懐事情への気遣いありがとう」
こう言ってあははと笑い、陽子はすぐに本来の明るさを取り戻していた。
何か引っかかるものを感じながらも、浩瀚はその時をやり過ごす。
次の日の昼、陽子は鈴と祥瓊を伴って、冢宰府の近くにある園林へと向かった。
高さにして四丈くらいの立派な木である。丁寧に手入れされ見事に咲き誇った桜が、ほのかな風に揺すられていた。やや赤みの強い薄紅色の、花びらが一つの花に何十枚も開いて、まるで桜色の手毬がいくつも、赤茶色をした小さな葉と共に木にぶら下がっているように見える。
それは、見事な八重桜だった。美しく華やかで、今はちょうど八分咲きか。何人もの官吏が、その下にある御座の近くに立ち、花を愛でている様子だった。
今日陽子が選んだ襦は、その瞳の色よりは明るく、しかしはっきりとした黄緑の地に、その髪の色とよく似た赤みの濃い八重桜の花が十ほど連なり輪を作っている模様が浮き出ていた。裙は濃い茶の無地を合わせている。
陽子の姿を見た官吏は、まず美しい姿に見とれた。しかし、その少女が景王だと解ると、あわてて深く拱手していた。その様子を見た陽子は、
「今日は桜を見てその美しさを味わいながら昼餉をとろうと思っている。あまり、堅苦しいのはやめよう。愛でる気持ちは皆同じだから」
と声をかけた。そして、鈴や祥瓊と共に、桜の木の下に敷いてある御座の上に腰をおろし、昼餉の支度を始めた。官吏たちも陽子の言うところを理解し、多少緊張してはいたが、共に昼餉の時を楽しく過ごすことができたと言う。
しかし、陽子は何となく元気が無かった。浩瀚もそれに気付いていた。宴が終わって景王が内殿に戻った後、気になった浩瀚は、急ぎの案件を持ち陽子の元へと向かった。
――無理に襦裙などお勧めしないほうが主上には良かったのだろうか――
浩瀚は、自分の思いが陽子の負担になっていたのではないかと迷想していた。最も、冢宰府の下官たちには大好評だったのだが。
目通りを願い、陽子の執務室に入った浩瀚は、すでに官服に着替えている景王を見て一抹の寂しさを覚える。案件を卓上に置き、浩瀚は改めて膝をつき跪礼の姿を取った。逆に陽子は、彼の様子に訝しさを覚えた。
「浩瀚、今日はありがとう、楽しかったよ。どうかしたのか?」
「恐れながら、主上はあまり楽しそうには見受けられませんでしたので」
「ああ、やはり私は思っていることが顔に出てしまうんだね。うん、それは申し訳なかった」
「とんでもございません。私の方こそ、差し出がましいことをしたのではと悔いております」
「いや、浩瀚?」
「はい?」
「こちらで、桜といえば、八重桜のことなのか?」
「いえ、そうとは限りませんが、この金波宮には八重桜が多いようでございます」
「そうか」
そう言って、陽子は少し言葉を切った。静かな時が二人の間に流れる。今はたまたま陽子のそばには誰もいなかった。
「私はどうやら、八重桜ではない桜が好きだったようなんだ」
浩瀚は瞠目する。そんな、単純なことに気付かなかったとは。
「誠に申し訳ございません」
「いや、冢宰を責めることはできないよ。襦裙もありがとう、あれも皆八重桜の模様だったね。お前が持ってきた時はずいぶん生地が薄いと思ったけれど、今日は日差しがあって昼餉と共に花を愛でようと思ったらちょうどよかったよ。申し訳ないのはこちらだ」
「いえ、臣として主上の御心をおはかりできなかったことは私の失態でございます」
「お前がそう言うならそうかもしれない。でもね、浩瀚?」
また自分の名をお呼びくださった、浩瀚は後悔の中でも嬉しかった。
「自分の好きな桜がこれではっきりしたことは良かったと思う」
「では、主上がお好きな桜とは?」
「うん、花弁が五枚であまり赤くなくて、花だけ先に咲き始める種類だ。確か蓬莱名ではソメイヨシノと言うんだ」
「そめいよしの、という桜は初めてお聞きしましたが、五枚の花弁で薄色の桜なら、自然の山に自生しているのではないかと存じます」
「そうなのか? 花弁が散る時は雪が舞うように見えるのか?」
「恐らくは」
「そうか、きっと私が好きなのはそう言った種類の桜だと思う」
陽子は、そう言って窓の外に視線を移した。
「その桜はまだ山に行けば咲いているのかなあ?」
「申し訳ございません。恐らくすでに散っているかと存じます」
「そうか、八重桜の方が咲き始めるのが遅いんだね」
「確か、そう記憶しております」
浩瀚は不思議な気がした。なぜか陽子が段々嬉しそうな表情になっていくからだ。今年はもう見られない。さぞ残念だろうと思われたのにだ。
「来年で良い」
「は?」
「来年、どこかに咲いているのを見つけておいてくれ。それを見に行くよ」
「かしこまりまして」
「お前と一緒に見に行きたい」
浩瀚は、その言葉を聞いて息が詰まるかと思った。
もちろん、陽子の「お前」の中にはもっと色々な人が入っているかもしれない。それでも、本当に嬉しかった。
今からでも遅くは無い、すぐにお探し申し上げよう。
浩瀚がそう思ったことは言うまでもない。
終