桜花儚散
くろまぐろさま
2012/05/18(Fri) 20:32 No.1047
春の庭院を蒼穹が覆う度に、少女は必ず足元に若芽を見出して微笑んだ。
まだ木と呼ぶにはあまりに稚い桜の芽――うだるような夏には水を撒き、毛虫が湧けば拾った枝でそうっとそれを取り除ける。
――こんなに世話を焼いちゃってさ、こうなったらもう私達の子供みたいなもんじゃないか?
そう冗談を言いながら無邪気に笑う女王は永遠に少女の姿を留めているのに、彼女に与えられた時間ばかりが永遠ではなかった。
かつて二人が幾多も盛衰を見守った桜の下で、今はたった一人の男が佇む。
長い治世の末、今際の際に主が下した命。
――私は景麒を道連れにしてしまった。だから浩瀚、おまえは生きろ。
――生きて、そして次の慶を支えてくれ。
最後の最後に主は繋いだ手を固く握りしめた。
――頼む。
それが男を今世に強く戒める何よりの鎖になると、少女は分かってそうしたのだろうか?
「主上。私は……仰せのままに務めて参ったつもりです」
命に従い長く続いた空位の国を預かった。
人は誰しも決して天を超えられないが、それでも仮朝は能く国を支えた。仮王は勝てるはずのない天に勝負を挑み、勝てはせずとも負けもしなかったと誰もが讃えるが。
溜息ともつかぬ息が漏れる。
「それは買いかぶりというものでしょう。官だけではない、国に留まり諦めず投げず、痩せ細るばかりの大地に種を撒き続けた民、勇敢に妖魔に立ち向かった兵達があってこそ慶は持ち堪えた。
今や慶は真に不羈の民が住まう国。ようやく朝も安定しましたし、これから新王の下、慶はつつがなく栄えます」
浩瀚は今上の王を思い浮かべ、その王から下賜された絹衣に目を落とした。
今は色褪せた淡い桜の上衣。
「今の主上が御庫の目録の頁を破いてまで下賜して下さったのですよ」
王の物はすべてが次王に引き継がれるべき御物、だから勿論この衣も例外ではなく御庫に収められていた。
それを王は則を破ってまで託してくれたのだ。
破いた頁をひらひらさせながら、幾千里離れた女に逢いに行くのに手ぶらはあるまい、だから偉大なる先達に倣ったのだと笑い飛ばす王の笑顔は痛いほどに作り物じみていた。
「惜しまれるうちは力を尽くせと貴女は御勘気かもしれませんが。
快活に笑う王を見る度に、少女の面影を色濃く留める台輔を見る度に、そして桜を見る度に、心を占めるのは貴女ばかりだ。
……もう、いいでしょう?」
ただ一人の庭院、さわさわ吹き抜ける風に僅かばかりの桜花が舞う。
浩瀚は柔らかな緑の枝ぶりに目を向けた。そこにはもう花のひとつとて付いてはなく、見上げる空に最後の桜花は儚く消えた。
――こうして桜を見守るのもこれで最後と決めている、だから。
「さらば」
ただ一言そう言い残し、二度と足を踏み入れることなき庭院を後にした。
この後、浩瀚の足取りを掴めた者は誰一人としてなかったという。