仰げば尊し
饒筆さま
2016/03/19(Sat) 22:33 No.9
何気なく凭れた石柱がほんのり温い。やや霞む蒼穹ではお天道様が燦然と輝いている。既に条風は止み、凌雲山は鳴りを潜め、毛織の上着は邪魔になった。そして今、鼻をくすぐる微風には花の香がたっぷりと含まれていて――少年はついにその事実を認めざるを得なかった。
「春が来たんだ……」
この空っぽの街に、春が。
少年は肩を落とし、ふかく嘆息して、石柱にべったりと背を預ける。
――どうして春が来るんだ?!
あの冬を終わらせたくない。悔しくて下唇を噛む。
春なんか永遠に来なくていい。
黄色い蝶が過ぎったから、少年は目を上げる。
「いつも」ならこの時刻、この門前は大勢の生徒たちでごったがえし、向かいの石柱には屈強な杖身を待つ小柄な少女が陣取るはずだった。
「珠晶……」
そして「いつも」なら、振り返れば白髪交じりの老師(せんせい)が朗らかに立っていて、生徒たちが三々五々帰路に就くのをにこにこ見送っているはずだった。
「搏老師(せんせい)……」
何度思い返しても目頭が熱くなる。
だが。
此処にはもう、誰もいない。彼の「いつも」は思い出になった。老師は妖魔に喰われ、珠晶は家を飛び出して行方知れずだ。庠学は閉鎖し、門扉には板が打ち付けられ、門前の街路を往く人さえまばら。授業も無いのに通いつめる物好きなんか、自分以外に見かけたこともない。
まだあどけなさの残る頬に、ほろ苦い笑みが浮かぶ。
――死んだらお終い。用が無くなったらそれでお終い、か。そんな薄情な奴らばっかりだったんだ……。
毎日ワクワクして通った、闊達で素晴らしい学び舎だったのに。みんな気心の通じる良い学友たちだと思っていたのに。
何度考えても腹立たしくて、少年は罪の無い石を蹴りつける。
――俺は「思い出」になんかしない!此処の代わりなんて、どこにもない!
勉強を続けられないのが辛いんじゃない。上庠への推挙がふいになったのが無念なんじゃない。初めて得た「己の居場所」を突如失ったことが、少年を打ちのめし、頑なな殻に籠らせていた。
◇◆◇◆◇
少年はそこそこ名の通った老舗の次男だ。店は手堅く繁盛していたが兄弟で分けられるほど大きくはなく、家族は長子ばかりを溺愛して少年を放置した。正直、何をやっても彼の方がずっと出来が良いのにそこは認めてもらえず、当たり前のように「おまえはそのうち家を出て行くから」と言われ、何をどれだけ努力しても扱いに歴然とした差をつけられた。
そうして万事面白くない彼は成長するにつれ親に盾突き、周囲に当たり散らし、すっかり手を焼かれて「頭は良いのだから学問でもしておけ」と搏老師の庠学に放り込まれたのである。
井の中で天狗になっていた少年の鼻は、たった二日で珠晶にへし折られた。よくよく教室を見渡せば、自分より聡い奴なんかいっぱい居た。生活は苦しくとも本が好きだ学問が好きだと瞳を輝かせる者、将来を見据えてコツコツ研鑽を積む者、大望を実現するんだとがむしゃらに努力する野心家、みんな自分よりもずっと先を歩んでいる気がした。
――俺は一体、何をしていたんだろう……。
意気消沈して言葉を失った少年を搏老師は茶話に招き、志を持つことを教えてくれた。
「確かに、生まれ出る場所や順番を選べないのは理不尽だね。腹が立つこともあるだろう。だが、自分だけが不運だ不遇だとダダをこねていても、現実は変わらないのだよ?何事も良いように考えよう。君がこれからどう生きて、何で身を立てるは君次第だ。君は自由に自分の力で未来を創ることができる。さあ、優樫、君は何になりたいのかね?何がやりたいのかね?その手で新しい扉を開いてみよう。ここはその為の学び舎だ」
ぽんと肩に置かれた老師の手は思ったより大きくて、その眼差しは温かく、穏やかな口調がかえって痛く胸に沁みた。老師の問いに何の答えも持ち合わせていないことを、少年は恥じた。だから随分長い間返答を渋ったが、老師は澄ました顔で渋茶を啜りずっと待っていた。やがて少年は泣き出した。
「……俺、やりたいことなんか、ありません。何になれるのか、わかりません……っ」
自ら進んで学んでいる学友たちが眩しかった。俺はなんて馬鹿なんだろう。
すると老師はただ柔らかく笑って頭を撫でてくれた。
「今まで考えたことがなかったのなら、これから考えればいい。自分で考えてもわからないなら、私と一緒に探してみよう。友達に相談してもいいんだぞ?焦らずに、自分だけの道を選ぼうな」
少年は胸がいっぱいで、鼻の奥がツーンとしてそれ以上何も言えず、結局、お茶もよばれずにとぼとぼ帰ったのを憶えている。
その日から、少年は変わった。搏老師の学び舎がかけがえのない場所になった。毎朝通うのが楽しみで、学問にも身が入り、ようやく日々にささやかな幸せすら感じられるようになった。
それなのに。
やたら寒かった冬の終わり、彼の居場所は呆気なく消えて無くなったのだった。
◇◆◇◆◇
先ほどの黄色い蝶がしつこく付き纏ってくるので、少年は投げやりに手を振って追い払う。蝶はふうわりと春風に乗って――まるで吸い込まれるように、こじんまりした木戸の向こうへ消える。
「あれ……?」
大扉の脇の、通用口の木戸が薄く開いていた。毎日来ていたけど、こんなことは初めてだ。
――誰か、いるのか?
少年は恐る恐る木戸を潜り、見慣れた学舎の前に立った。
懐かしい。たったひと月見なかっただけで、心が震えるような感慨を覚える。腹の底から込み上げるものをぐっと呑み込んで、少年は耳を澄ます。……だが、物音はひとつも聞こえない。目を皿にして辺りを隈なく観察する。……人の手が入らなくて荒れた以外は、特に変わりはなさそうだ。
少年は用心深く学舎の正面から右へ回りこみ、角から顔を突き出してその向こうを覗く。その途端、少年の口から思わぬ感嘆が漏れた。
「うわあ……!」
院子(なかにわ)の一角が薄紅の雲霞に包まれている。木花だ。その細枝の隅々にまで可憐な花を鈴なりにつけた木が、まるで豪奢な衣を纏った貴人のごとく鎮座している。黄色い蝶はその花霞の方へ喜び勇んで飛んでゆく。
――あれは確か、老師ご自慢の木だ。
「名前は……さくら、だっけ……?」
すごく綺麗だ。少年は夢見心地でさくらを見上げ、ふらふらと院子に分け入った。
搏老師は自宅だけでなく学舎の院(にわ)にも凝っておられたが、遠い東の国から伝わったと云うその木はとりわけ大事に世話をなさっていた。毎年開花が近づくとそわそわして、満開になれば「今年も見事に咲いたぞ!いやぁ、めでたい!今日は花見をしよう」と生徒たちに団子を振る舞ってくれたりした。
……肝心の少年自身は、団子の分配を監視したり、春陽に映える珠晶の横顔を盗み見たりするのに忙しくて、さくらの花なんかちっとも眺めていなかったのだが。
――あのとき、老師と一緒に花見をしておけば良かった。
後悔は先に立たない。しかも今頃になってやっと、太い枝に掛かった札を目敏く見つけたりする。
『花を愛でなさい。そして花が咲く今を愛でなさい』
きっちり四角に整って美しい文字が真っ直ぐ二列に並んでいる。間違いない。老師の字だ。
――花が咲く今を愛でなさい。
少年の肩がわなわな震えた。
もう我慢ならない。涙が堰を切って溢れ、少年は無人の院で奇声をあげる。
「そんなのッ……死んだらもう、愛でられないじゃないかあッ!」
老師!どうして!なんで死んじゃったんだよ!まだ腰が曲がるには早かった。もっと早く気付いて、素早く逃げることもできたはずだ――馬腹め、なんでわざわざ老師を選んで襲ったんだよぉ?!珠晶も珠晶だ、家を嫌って自活の道を探っていたことは知っていた。それでも深窓のお嬢様が一人で外へ飛び出したら、どうなるかくらいはわかるだろうにッ!ああ、あの子は今どうしているだろう?人買いに捕まって他国に売られてやしないだろうか、もしや妖魔に襲われて既に野晒しになっているんじゃ……!
悲しくて、悔しくて、心配で、腹立たしくて、何もかもがどうしようもなくて――少年は大声をあげ己の髪を掻き毟る。
「うああああああああ!!」
次いで地団太を踏んで暴れ出す。
「くっそおおおおおおチクショオオオオオ!なんでだよ?なんで?なんでなんだよぉ!!」
ひとしきり吠えて泣き騒げば、激情は去ったものの、後には虚しさと徒労感だけがひたひたと押し寄せてきた。
さやさやさやさや……。
自分の嗚咽に混じって、数多の花たちが風に揺られて囁く声が耳に入った。それはささやかな、密やかな声だけれど、なぜか彼を慰めているように聞こえた。
さやさやさや……。
自然と、老師の言葉が浮かんでくる。
――自分だけが不運だ不遇だとダダをこねていても、現実は変わらないのだよ?
少年は口を閉ざした。嗚咽を呑み込み、薄い唇をへの字に結ぶ。花の囁きは止まない。
さやさやさや……。
花たちが指し示す先には、老師が遺した札がある。
『花が咲く今を愛でなさい』
どんなに悲しくても辛くても、現実に訪れた春を拒むことはできないのだ。
「でも!でも……老師、俺は……」
また涙が滲んで、少年は長い袖で目を拭う。喉を鳴らし、鼻を啜る。そんな少年を包むように、花たちは優しく囁きかけた。
さやさやさやさや……。さやさやさや……。
突如、少年が決然と面を上げた。
少年は真っ赤な顔をくしゃくしゃに歪めたまま、口を引き結び、さくらの木にずんずん側寄る。背伸びして搏老師がかけた札を丁重に外し、後生大事に小脇に抱える。そして数歩下がると、老師が愛した木に深々と頭を下げた。
「……ありがとう、ございましたっ!」
少年の頬にまた一筋、熱い涙が零れる。
しかし彼は今度こそその涙を振り払うように踵を返し――揺れる花枝が見送る中、二度と振り返ることなく、大股で歩いて帰って行った。
それからしばらく後。
新しい学び舎へ通い始めた少年の元に、龍旗掲揚の吉報が届いたのだった。
<了>