もし…だったら
未 明
ネムさま
2016/05/17(Tue) 22:45 No.638
“それ”は闇の中にいた。
漆黒に塗り込められた夜の森。僅かに浮かび上がるのは、未だ残る雪の跡、そして遠くの野木の影。木々さえも闇の一部と化して虚空に向かって屹立し、生きたものの気配は、それが漏らす低い喘ぎと、足を引き摺る微かな音のみだった。
やがて一本の木の下で動きは止まり、影が蹲った。喘ぎは短く、しかし更に低く抑えられる。それは、己を纏うものが、闇に浮かび上がることを恐れていた。だがこれ以上の歩行は、足の傷を悪化させることも悟っていた。
長く伸びた舌で口回りを舐めると、血の味がした。先ほど屠った獲物の味が甦り、僅かに体が充たされた。固く食べにくかったが、久々の獲物だった。空腹を満たすのが先になり、相手から受けた傷を癒すのが遅れてしまったが、ここらには、もう獲物となる生き物が殆どいないのだ。
蹲った地面からは、しんしんと冷気が伝わってくる。傷が痛む。思わず木肌を掻く。微かな香りが鼻先を掠める。知らずに頭を上げた。
虚空へと消えかかるように見えた木も、夜目の利く瞳を凝らすと、枝の影が、そしてその先に、いくつかの蕾が見えてきた。それは死に絶えたかに見える世界に、ひとつの生命を灯していた。
生命に誘われるよう、木肌に爪を立て仰ぐと、また香りが微かに過ぎる。強くはないが、どこか凛とした…
― … … さ ま … ―
何かが、目覚める。
― … サクラ … 蓬莱の … ―
喉元に込み上げるもの。
― ぼくの好きな… 見せたい… ―
爪先に力が籠る。傷の痛みが増す。
突然“言葉”が耳朶を打った。
― よくも 騙したな ―
次々となだれ込む怒声と憎悪。
― …将軍が 教えて…―
― 半…が 王だ…て…―
― 汚らわしい …しまえ ―
鋭い 痛み。背中が燃えるよう。
― 背中? 傷を負ったのは足のはず ―
気付くと、枯れた枝々の向こうに、白みかけた空が見える。夜が明けようとしている。そして、蕾の一つが、今まさに花びらを綻ばせかけていた。
その儚げで柔らかな姿は、懐かしい何かを示しているかに見える。
― 私は … ―
白い毛に覆われた紅い瞳が大きく見開かれる。
陽の光が一条、射しこんだ。
山野を揺るがす、獣の咆哮。
僅かに残る鳥達が、一斉に羽ばたく。森の中から白い何ものかが飛び出し、荒野へと走り去って行った。
戴の、まだ明けきらぬ日々が、また始まろうとしていた。