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慟 哭どうこく (1)

桜散る。心ざわめく。
舞い落ちる花びらは、想いか、涙か。
それとも──。

桜散る。心惑う。
舞い踊る花びらに、魅入られる。
それでも──。

花は花。潔く美しい花に罪はない。
罪を作るのは、いつも、人のほう──。

* * *  1  * * *

 かたり、と窓が開く音がした。早春のひやりとした空気が流れこみ、景王陽子は顔を上げる。すると、細く開けられた窓から、大きな影が密やかに身を滑りこませるところだった。笑みを浮かべて立ち上がったそのときにはもう、陽子は気紛れな伴侶にきつく抱きしめられていた。
「花見に来た」
 笑いを含んだ声が、楽しげにそう告げる。相変わらず、我が伴侶はわけの分からないことを言う。花などどこにあるのだろう。桜が咲くのは、まだまだ先のことだというのに。陽子は呆れたように応えを返す。
「──花見だなんて、まだ早いよ」
「もうとっくに咲いておるぞ、ここに」
 しかし、伴侶はそう言ってくつくつと笑う。外にはもう、早咲きの花が咲いているのだろうか。そう思い、額をつけると、夜気と潮風で少し湿り気を帯びた衣から、微かに花の匂いがした。このひとは、雲海の上にも花香る早い春を運んできたのかもしれない。
尚隆なおたか……」
 苦笑を浮かべて見上げると、そこには伴侶の晴れやかな笑顔があった。延王尚隆のこんなに屈託ない笑みを見たのは、いつ以来だろう。陽子は少し考える。
 いつも気儘なこのひとが、雲海の上から現れるのは、身の内の暗闇が濃くなったとき。それなのに、その双眸に潜む昏い闇は全く見えない。──それは喜ぶべきことなのに。
 首を傾げていると、くすりと笑う声がして、唇が落ちてきた。陽子はその甘い口づけに身を任せる。帯が解かれ、夜着がぱさりと床に落ちた。唇を離した伴侶は人の悪い笑みを向けて陽子の裸身を眺める。
「──我が伴侶は、相も変わらず麗しい花だ」
「埒もない戯言を……」
 咎める唇をまた塞がれ、陽子は再び伴侶に身体を委ねる。唇に、首筋に口づけを落としながら、伴侶は今立ったばかりの榻に陽子を横たえた。また、こんなところで、と陽子は苦笑を浮かべる。
 伴侶はそのまま、陽子の生まれたままの肢体をじっと見つめた。まるで初めて見た、とでもいうように、熱の籠もった目で。そして、満足したように、ひとつ大きく頷いた。
「美しいな」
 じっくりと観賞を済ませた伴侶に囁かれ、陽子の頬が朱に染まる。己が花に例えられていると今更ながら気づき、羞恥心が高まった。身を隠そうと動かした腕が捕まれ、陽子はますます頬を赤くする。その様子すら楽しむ人の悪い伴侶は、微笑を浮かべて陽子の肌に大きな手を滑らせた。
 初夜の如く、優しく甘やかに、伴侶の手が、唇が、陽子に触れる。その丁寧な愛撫に、陽子は初めての夜のような戸惑いを憶えた。
 どうした、と訊ねる声が耳朶をくすぐり、陽子は思わず息を呑む。物思う余裕すら奪う熱い唇が、首筋をゆっくりとなぞっていく。陽子は小さく喘ぎ、肩を震わせた。何も考えるな、と言われたような気がして──不安が増した。

 今宵の尚隆は、優しすぎる──。


 延王尚隆の双眸に潜む昏い深淵は、底知れぬ深さを窺わせた。その瞳に狂おしく浮かぶ、相反する想い。その暗闇は、静かに、ときに烈しく、伴侶である陽子を翻弄した。
 鷹揚で豪放な延王尚隆が夜に見せる顔を知る者は、景王陽子ただひとり。陽子を切実に抱きしめたかと思うと、身が壊れんばかりに手荒く扱う。そんな伴侶の大きな身体を抱きしめ、陽子は昏い闇を受けとめ続けた。
 揺らぐことなどないと思っていた伴侶の揺れを初めて見たのは何時だったろう。いつも陽子を包む大きな身体を抱き、却って嬉しく思った。稀代の名君と称えられるこのひともまた、己と同じく悩める王なのだ、と気づいて。そして──偉大なる伴侶の隣に立つに相応しい女と認められたような気がして。
 軽口ばかり叩く唇よりもずっと想いを語る双眸を、声なく見つめ返す。その瞳が隠す、全てのものを受けとめたかった。熱い愛も、昏い憎しみも、深い哀しみも、そして、決して口に出さない王の孤独をも。けれど。このひとは、はたしてそれを望んでいたのだろうか。
「──陽子」
 愛おしげに呼ぶ唇が口づけを求める。陽子は目を閉じ、その唇を受け入れた。啄むように軽く触れては離れ、触れるたびに深さを増していく口づけ。俺のことだけを考えろ、甘く告げるその唇に、陽子は抗うことができなかった。
 不安な想いは、伴侶の情熱の前にいつしか融け去った。灯りが点いていることも忘れ、陽子は押し寄せる熱い波に身を任せた。男の顔を見せる伴侶を切なく見つめ、その名を呼ばう。そして、荒い息で名を呼び返す男とともに登りつめた。
 陽子は深く息をつき、伴侶の大きな体躯を抱きとめた。その重みとまだ速い鼓動を感じると、えもいわれぬ幸せな気持ちになる。そんな想いを籠めて、陽子は伴侶の広い背を抱きしめた。くすりと笑う声がして、身を重ねた伴侶は陽子に全体重をかける。あまりの重さに不平が漏れた。
「──潰れちゃうよ」
「それがよいのだろう?」
「──限度があるってば」
 人の悪い笑みを見せ、伴侶はいつもの如く憎らしい応えを返す。涙目で訴えると、伴侶はくつくつと笑って身体を横向けた。ほっとしたのも束の間、ぐいと抱き寄せられ、また息が詰まる。腰に絡められた腕の力が増していった。
 あ、と声を上げ、陽子は身動いだ。大きな手が頤を持ち上げる。小さく喘いだ唇をぴたりと塞がれて、呼吸が苦しい。陽子は悪戯な伴侶の背を叩く。それを面白がっているかように、伴侶の腕は、ますます陽子をきつく抱きしめる。唇が解放されたのは、気が遠くなりかけた頃だった。
「──陽子」
 唇を離した伴侶は、限りなく優しい笑みを見せ、愛おしげに名を呼ぶ。朦朧とした陽子は、深い溜息でそれに答えた。そして──伴侶が続けた信じられない言葉に驚愕したのだった。

2007.03.28.
 お待たせいたしました、中編「慟哭」第1回をお届けいたしました。 ──なんだかお叱りを受けそうな終わり方なのですが、ご勘弁くださいませ。
 昨年「追憶」を書いてから、どんどん広がっていった末声シリーズの中でも、 最も胸が痛くなるお話でございます。 無事に書き上げられるよう、祈っていてくださいませ。

2007.03.28. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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