慟 哭 (2)
* * * 2 * * *
「──愛している」
伴侶の唇から漏れた、柔らかな低い声。陽子ははっと顔を上げる。ざわざわと音がして全身の血の気が引いていく。何があろうとも決して口に出されなかった言葉。その意味が分からぬ陽子ではなかった。
優しく微笑む瞳は、陽子の視線を受けとめ、避けることなかった。何の迷いも躊躇いもない延王尚隆の双眸を、景王陽子はただ黙して見つめ返す。
あなたは、とうとう解放されたくなったんだね……。
そう思うと、唇に笑みが浮かんだ。それと同時に、瞳に涙が滲む。何故だろう。このひとが全てのものから解き放たれるときは笑って見送ろう、ずっと昔から心に決めていたというのに。
己の存在がこのひとを縛るもののひとつなのだと、陽子は知っていた。国や民が王を縛るように、伴侶たる己の存在も、このひとの頚木となっていた。このひとは、とっくにこの世に飽いていたというのに──。
風を、この腕に留めることなどできはしない。いつか、このひとは旅立っていくのだろう、陽子はどこかでそう思っていた。だから、そのときには笑顔で、ありがとう、と言いたかった。けれど、唇に浮かべた笑みとは裏腹に、大粒の玉が、瞬きするたびに、ひとつずつ零れていった。
穏やかな笑みを湛えた尚隆は、そんな陽子をじっと見つめる。涙が幾筋も頬を伝う頃、陽子は微笑む伴侶にそっと抱き寄せられた。
「──美しいな、お前も、その涙も」
しみじみと、感慨深げに、尚隆は陽子に賛辞を贈る。誰がどう褒め称えようと、陽子は本気にできなかった。それは、最愛の伴侶が決して口にしなかったからかもしれない。なのに、今際の際に、尚隆は、流れるように陽子を賛美する。
「お前を得たことが、俺の最大の幸福だ」
愛しむような笑みを向け、何度も唇を重ね、離すたびに繰り返される、甘い賛美の言葉。しかし、それは、閨を共にする女を酔わせるためのものではない。噛みしめるようにゆっくりと紡がれる数々の言の葉は、凝縮された想いを曝け出す。まるで、遺言を告げるかのように。
「俺はお前のものだ──永遠に」
何ということを口にするのだろう、このひとは──。別れの言葉など、ひとつもない。それは寧ろ、愛の告白と言ってよいものだった。それなのに、このひとは、陽子に永遠の別離を悟らせるのだ。
賛辞など、いらない。もう、何も聞きたくない。これが最後など、認めたくない。そう思いつつ、陽子は微笑する伴侶から目を逸らすことすらできずにいた。
──何も言えない。口を開けば、きっと、縋ってしまう。逝かないで、私を独りにしないで、と。このひとは、そんな言葉に心動かされるひとではない。だからこそ──。
置いて逝かないで。連れて逝って。私も一緒に逝く。
国を預かる王として、決して言ってはいけない一言を、きっと吐いてしまう。肯定されても、否定されても、逃げ場がなくなる、禁断の一言を──。
優しく宥めるように抱きしめるひとにしがみつき、ただ泣いた。声を殺し、嗚咽を堪え、陽子はただただ涙を流し続けた。
「──陽子、声を、聞かせてくれぬか」
限りなく優しく、どこかしら切ない掠れた声が、耳許で囁く。涙に濡れた瞳を上げて、陽子は伴侶をじっと見つめた。
「──言っても……いいの……?」
「──構わぬ。言ってくれ」
尚隆は微笑した。何を言われてもお前を受けとめる。穏やかで優しい双眸はそう語る。陽子は愛しい伴侶を真っ直ぐに見つめ返し、口に出したことのない一言を伝えた。
「──愛してる」
だから、置いて逝かないで。一緒に連れて逝って。
しかし、その想いは言葉にならなかった。愛の言葉を初めて告げ、とうとう嗚咽が漏れた。声を出してしまえば、もう我慢できないと分かっていたのに。
「愛してる……」
だから、お願い、連れて逝って。私も一緒に逝く……。
泣き崩れる陽子を抱きしめる腕はあくまで優しく、そして揺るぎなかった。
末期の決意を固めた伴侶を引き止めることは、もうできない。一緒に逝こう、そう言われたなら、黙って頷いたのに。けれど、このひとは、それすら、予期しているのだろう。一緒に逝こう、その言葉を聞けば、晴れやかな笑みさえ浮かべ、陽子が即座に頷くことを。それ故に。
答えは、陽子が出さなければならない。このひとと手を取り合って一緒に逝くか、この世に留まり王として在り続けるか。このひとは、陽子の決断を待っている。
答えなど、決まっている。何度も夢に見た。何度も泣いた。それでも、いつも答えは同じ。
遠い昔に、このひとと約束を交わした。力のない、新米の王に助力してくれた隣国の王の恩に、いつか報いる、と。陽子は、溢れる涙もそのままに、揺るぎなき女王の笑みを浮かべる。
「──借りを……返すときが来たね……」
ただそれだけの応えを聞いて、伴侶は明るく笑い、大きく頷いた。何の未練もない、その晴れやかな笑み。このひとは、陽子の答えを初めから知っていた。
互いに王であると、忘れたことはない。いつか訪れる現実が、今訪れただけのこと。どんなに突然に思えても、それは、必然であり、逃れることのできないものだ。そして──延王尚隆が道を踏み外すことなどない。その前に、このひとは桜のように潔く散っていくだろう。
瞬きするたび、涙が零れていく。涙を拭う熱い唇を感じながら、目の前の伴侶をきつく抱きしめた。
「尚隆……愛してる。私を……抱いて」
そして、そのまま、陽子を連れて逝って。陽子は、あなたのものだから、あなたが連れて逝って。そうしたら、私には景王陽子しか残らない。景王である私は、あなたを恋しがって泣いたりしない……。
「──心地よい言葉だな」
笑みを浮かべた尚隆は、静かに陽子を抱き上げる。そして、ゆっくりと臥室に向かった。
牀に横たえられ、陽子は伴侶と見つめあう。延王尚隆の双眸に潜んでいた昏い深淵は、どこにも見当たらない。もう──暗闇がこのひとを悩ませることはない。だから、昏い闇を受けとめる陽子も、必要ないのだ。このひとは、独りで逝ってしまうのだ──。
いつも求められるのを待っていた。求めることが怖かった。──己を失い、このひとに溺れてしまうことを、恐れていた。このひとを喪うことより怖いものなどなかったというのに。
愛している、その言葉とともに、陽子は羞恥も矜持もかなぐり捨て、熱く烈しく伴侶を求めた。伴侶はそんな陽子を情熱的に抱きしめた。このまま二人でどこかへ行けたなら、どんなに幸せだろう。見果てぬ夢を見ながら、陽子は伴侶の腕の中でしばしまどろんだ。
「──お前は何故、俺を受け入れる?」
「──あなたが私を求めるから」
気怠い沈黙を破る、いつもの問い。陽子は物憂げにいつもの応えを返す。そして、重ねられる問いを待った。
「本当に、それだけか?」
伴侶の問いはいつもと少し違った。陽子の頬を掌で挟み、伴侶は人の悪い顔で覗きこむ。否やを許さぬその問いに、陽子は深い溜息を零す。
「──あなたを……愛してるから……全てを受けとめたかった……。そう言えば、信じる……?」
「お前は、可愛いな」
目を逸らせないこの状態で、口に出したことのない本心を伝えると、頬が熱く火照る。伴侶は今まで見たことがないくらい嬉しげに笑い、陽子に甘く口づけた。
「俺はお前を困らせたかったわけではないぞ。──お前は、困った顔が可愛い」
お前の可愛い困り顔を見たかっただけだ、と伴侶は照れた笑みを見せる。陽子は怒ってよいのか泣いてよいのか分からなかった。口をぱくぱくさせていると、伴侶は愛おしげに笑って続けた。
「だから、俺の我儘を、全て許す必要などなかったのだぞ」
「──そんなこと言われても、分からないよ……」
拗ねた応えを返すと、瞳に涙が滲んだ。悲しいのか、悔しいのか、陽子は己にも理由が分からなかった。拗ねた顔も可愛いな、と伴侶は耳許で囁き、陽子を抱き寄せた。
今このときが、永遠に終わらなければいい──。
過ぎ行くからこそそう思う。空が白みかける前に、伴侶はそっと陽子の腕を解く。かぶりを振り、もう一度しがみついた。宥めるように陽子の背を叩き、伴侶は身を起こす。
お願い、そんなに早く出て行こうとしないで。身支度を整える伴侶を、祈るような思いで見つめ、陽子は己も服を纏った。笑みを湛えた伴侶は、おもむろに陽子の手を取る。陽子は伴侶の大きな手を強く握り、一緒に露台へと向かった。
2007.04.10.
大変お待たせいたしました、中編「慟哭」第2回をお届けいたしました。
どこまでもヘタレな管理人は、いいところで切ったまま先に進めずにいたのでした。
──胸が詰まり、コメントするのも辛い状況でございます。
それでも書き綴ってしまう私は、Mなのかもしれません……。
第3回はあんまりお待たせしないで出せると思います。
コメントしにくい作品かもしれませんが、一言いただけると、大変嬉しく思います。
2007.04.11. 速世未生 記