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慟 哭どうこく (3)

* * *  3  * * *

 愛しい伴侶と手を繋ぎ、陽子はできるだけゆっくりと足を運んだ。そんな陽子の気持ちを察してか、伴侶はくすりと笑って陽子に歩調を合わせる。
 どんなにゆっくり歩いても、すぐそこの露台には、あっという間に着いてしまう。外に出ると、早春の冷たい潮風が、陽子の髪を弄った。思わず震わせた肩を、伴侶が優しく抱き寄せた。
 そのまま伴侶と熱い口づけを交わす。幾千回、このひとと唇を重ねてきただろう。それも、これが最後なのだ。そう思うと離したくない気持ちが募る。離してしまえば、もう、二度と、会えない。それが分かっているから、伴侶は自ら身を離す。
「陽子、愛している」
尚隆なおたか……私も……愛してる」
 晴れやかな笑みさえ浮かべ、伴侶は愛を語る。今際の際に──。応えを返しながらも、涙を止めることはできなかった。零れた涙を最後に拭い、伴侶は騶虞に騎乗する。国から、民から、そして──伴侶から解放された、寛いだ笑みを湛えて。
尚隆なおたか……ありがとう」
 景王陽子は精一杯の餞の笑みを贈る。そのときは笑って見送ると約束した。王という名の頚木から解き放たれ、延王尚隆から小松尚隆に戻るこのひとの門出を、笑顔で祝う、と。
 一瞬目を見張り、すぐに破顔した伴侶は、片手を挙げて陽子に応える。そして騶虞すうぐを駆って払暁の空に舞い上がった。あまりにも呆気なく、見る間に遠ざかる伴侶を、見えなくなるまで見送り、陽子はその場にくずおれた。
 露台の欄干に縋り、声を殺して泣いた。もう、二度と会えないのだ。あのひとは、逝ってしまう。この春に、恐らく、桜とともに。北の国の桜が散る前に。
 ひとしきり泣いて、陽子は顔を上げた。花見に来た、と伴侶は言った。今年からもう、あのひととあの花を見ることはないのだ──。陽子は足許に呼びかけた。
「──班渠」
「ここに」
「──連れて行ってくれ」
「主上……」
 使令が足許から現れて応えを返す。譫言のような陽子の呟きに、班渠は諫める声を上げる。
「連れて行ってくれ、あの……桜のところまで」
 陽子は班渠の目をはたと見つめた。班渠は黙して陽子を背に乗せ、白みかけた空を舞い上がる。夜の冷気が頬を撫でる。その冷たさはこれから起こることを予期させるかのようだった。
 桜の大木が見えてきた。まだ蕾をつけたばかりのその桜の根元に班渠は降り立った。そのまま足許に消えようとした班渠に陽子は声をかける。
「金波宮に戻って景麒に伝えてくれ。しばらく独りにしてほしい、と」
「──主上!」
 班渠は咎めるように叫んだ。身を守る水禺刀さえ帯びていない国主を独りにすることなどできない、と班渠は諫める。陽子は大きく首を振り、もう一度班渠の視線を捉えた。
「頼む、班渠。今だけだ。──景麒は、また、心配しているだろう」
「──畏まりまして」
 不承不承頷いた班渠の気配が消えた。初めて完全に独りきりとなった陽子は、明けてゆく空と、蕾をつけた桜を見上げる。

 嫌、嫌、嫌──。逝かないで。私を、置いて逝かないで。私も、一緒に逝く……。

 何度も夢に見た。何度も泣いた。けれど、心に思うその一言は、夢でさえも言えなかった。もちろん、現実にも。
 愛している、とあのひとは笑った。お前に出会えて幸せだ、と。お前は美しい。お前は優しい。お前は勁い。お前を愛している、俺はお前のものだ、永遠に。
 それなら、何故──私を置いて逝くの。私を独りにするの。何故……そんなに淀みなく、最後を告げるの……。
 胸が痛む。心臓を鷲掴みにされているような痛み。あなたは、私に耐えよと言うの。未来永劫、この痛みに耐えよ、と。──そんなことはできない。連れて逝って。私も、一緒に、逝く……。
 桜にしがみつき、声を上げて泣いた。誰にも言えない。誰にも見せられない。陽子は、王なのだから。王は、泣いてはいけない。──それを教えてくれたのも、あのひとだったのに。

(──楽にしてやろうか? 俺が、この手で)
(──国など、どうでもいい。お前と共に逝けるなら)

 かつて悩める陽子に、伴侶はそう言った。一国の王が口にするには、あまりに重いその言葉を、陽子は即座に拒絶した。王が王を手にかけるなど、到底信じられないことだった。何故──それを信じなかったのだろう、その究極の愛の告白を。大国の王であるひとが、己が背負う国を、陽子のために捨てる、とまで言ったのに。国よりも、民よりも、陽子が大切だ、と。
 あのとき、頷いていれば、今こんなに苦しい想いをすることはなかっただろうに。王にあるまじきことを思ってしまう己を、陽子は止めることができなかった。しかし──この想いを超えなければ、国を滅ぼしてしまうことすらも、陽子は知っていた。だから、せめて今だけは泣かせてほしい──今しか泣けないのだ。
 延王尚隆は、蓬山には行かない。雁は、これから荒れる。自ら命を絶ち、理に背く王のために。景王陽子はかつての約束どおり、雁州国の後ろ盾とならなければならないのだ。伴侶が愛し育んだ国を、そして陽子がずっと目標としていた豊かな隣国を守るために──。

 いつしか陽子は桜に凭れて眠っていた。どのくらい時が経ったのだろう。目を開けて桜を見上げても、もう、涙も出なかった。桜の幹に背中をつけて、陽子はぼんやりと暮れていく西の空を眺める。沈みゆく太陽は、まるで己の王朝のように思え、陽子は薄く笑う。
 やがて、空が黄昏にすっかり包まれてしまった頃。微かな気配に、陽子は顔を上げる。そっと迎えに来た景麒が遠慮がちに声をかけてきた。
「──主上」
「景麒……心配かけて済まなかった」
 陽子はゆっくりと立ち上がった。そして、景麒の肩に額をつけ、小さく詫びる。景麒は黙したまま、陽子の肩を抱いた。
 何も問わぬ己の半身の優しさに感謝しながらも、陽子は胸で密かに呟く。

 済まない、景麒。私は、いつか、お前を、置いて逝く──。

「──もう、大丈夫。行こう」
 景麒は黙して頷き、足許に声をかけた。いつものとおり、班渠と驃騎が姿を現し、陽子と景麒を背に乗せた。班渠はふわりと舞い上がる。陽子は思い出深い桜を振り返って見やった。
 あのひとを想って泣くのは、これが最後。そして、小松陽子の慟哭を知るこの桜を見るのも、これが最後。己が決めた道を、悔やみはしない。陽子は王なのだから。
 静かに枝を伸ばす桜の大木に決然とした一瞥を投げ、景王陽子は前を見る。そして、二度と振り返ることはなかった。

* * *  終 章  * * *

 窓から見えるその木々に、小さな蕾がついた。また、季節が巡ったのだ。景王陽子はふと手を休め、窓辺に歩み寄る。花芽は少しずつ膨らみ、美しい薄紅の花を見せてくれるのだろう。
 春になると、慶の国はこの花に包まれる。国主景王の故郷を偲ばせる、美しき桜花。それは景王陽子だけでなく、その伴侶であった隣国の王がこよなく愛した花だった。
 春を告げる花。そして──喪われた伴侶を想い出させる花。伴侶の代わりに、陽子を見守るその花を、陽子もまた見つめる。

 今年も無事に春を迎えることができました。尚隆なおたか──あなたは、そこで見ていてくれますか。

 桜の花を見るたびに、伴侶の言葉を反芻する。最後の逢瀬に、愛の言葉のみを告げたひと。お前は美しい、お前は優しい、お前は勁い、お前は可愛い……。
 困った顔が可愛いのだ、とあのひとは笑った。困らせたかったわけではない、可愛い困り顔を見たかったのだ、と照れたひと。

(だから、俺の我儘を、全て許す必要などなかったのだぞ)

 愛しむように笑う伴侶の本音が、あのときには分からなかった。我儘を許しすぎた陽子の罪を、あのひとは責めなかった。
 あのひとの全てを受けとめたかった。けれど、あのひとは、それを望んではいなかった。全て許すことが、あのひとを追いつめ、その暗闇を更に深めた。それでも。

 あなたを、愛していた。今も、変わらず愛してる──。

 散り行く桜の花びらを憎みたいときがあった。あのひとを連れて逝ったこの花を恨みたいときもあった。けれど、あのひとが愛した桜を、あのひとの如く潔い桜を、厭うことなど、結局できなかった。
 桜は、愛しいあのひとを偲ぶよすが。あのひとの如く、陽子を見守ってくれる。国中に植えられた桜が、どこにいても優しく陽子を包んでくれる。
 固い蕾に、咲き初めし花弁に、舞い散る花びらに、陽子は語りかける。優しく、静かに、愛しい伴侶に聞かせる如く。そして、桜は静かに囁き返す。

 陽子、愛している、と──。

2007.04.12.
 中編「慟哭」最終話をお届けいたしました。──案の定、呆けております。 散文「桜散る」及び御題其の四「最後の逢瀬」を書き流してから約1年。 やっと「慟哭」を仕上げることができて、感無量でございます。
 1年間、この作品をぽつりぽつりと書き綴っては落ち込む私を 励ましてくださってありがとうございます。 そして──最後の最後でやっと互いに愛を告白しあい、最後にすら別離を告げない、 意地っ張りなな二人を見守ってくださってありがとうございます。 応援してくださった皆さまのお蔭で、完結させることができた作品でございます。 お気に召していただけると幸いです。

2007.04.15. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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