伴 侶 (1)
* * * 1 * * *
尚隆が、雲海の上を駆けていく。また、慶に行くんだな。そう思い、六太は窓辺に頬杖をついて小さくなる背を見送った。
いつも気紛れに玄英宮を抜け出す尚隆だが、海の上を行くことはあまりない。この世界は雲海によって上下に分かたれている。海の上には、島のように突き出た凌雲山しかないのだ。
そんな凌雲山のひとつである、堯天山。麗しき女王が住まう隣国の宮殿は、この海の東方にある。打ち寄せる波を見ながら、六太はぼんやりと思った。陽子はどんな貌をして窓から現れる尚隆を迎えるのだろう。
あのひとは風だからね。
そう言って笑う陽子はいつにも増して美しかった。
強がりでなく、諦めでなく、陽子はあるがままの尚隆を受け入れる。気儘な尚隆に振り回されているようで、いつも陽子は揺るぎない。
そう、気紛れな風に梢を揺らされても、桜の樹は端然とその場に立ち続ける。陽子を見ていると、そんな桜の古木を思い出す。陽子は、ただ美しいだけの女ではないのだ。
だから──尚隆は陽子に惹かれるのだろう。
尚隆だけではない。六太もまた、初めて会った時から陽子が好きだった。麒麟に選ばれながら玉座を拒み、故郷へ帰りたい、と強い意志をみせた陽子を、好もしく思った。
だから、陽子が玉座に就く決心をし、尚隆の求愛を受け入れたとき、六太は驚いた。それは、尚隆が助力を盾に脅迫したからだと思った。何せ尚隆は己の意思を通す時には手段を選ばない。やれ、の一言に動かされるのは、六太だけではなかった。
けれど、陽子は脅迫ではないと言い切った。確かに陽子の頑固さは筋金入りで、尚隆でさえ説得に難儀していた。そして、陽子は脅迫に屈するような女ではない。陽子の話を聞いて、六太は密かに納得した。尚隆は、陽子を誘導したのだ、と。
どこまでいっても六太や雁の官吏は尚隆の臣。文句を言っても最後には尚隆の命を呑む。が、陽子は違う。隣国の女王である陽子は、尚隆の命を聞く謂れなどない。
そんな陽子に、尚隆は景麒奪還のための王師を貸そう、と申し出た。その上、蓬莱に帰りたいなら延麒に送らせよう、とさえ言ったのだ。
残るにしても戻るにしても、陽子は尚隆の手を借りなければならない。老獪な尚隆は、そういう状況を巧妙に作った。これも一種の脅迫だな。そう思い、六太は溜息をついた。そして、陽子はそんな周到な誘導に乗せられ、尚隆の手に落ちたのだろう。
よりによって、隣国の女王を己の伴侶に望むなど、不遜にもほどがある。天に喧嘩を売っているかのようだ。いや、もしかして、ほんとうに天が相手の博打を打っているのかもしれない。
遥か昔、尚隆は、蓬莱で守るべきものを守ることができず、国と民に殉じようとしていた。そんな尚隆に六太は訊いた。国がほしいか、と。ほしい、と尚隆は即座に答えた。
雲海を見つめると、あのときの海が蘇った。血の臭いが満ち、死体ばかりが浮いていた、瀬戸内の海が。思わず目を瞑ると、今度は王に蹂躪され尽くし荒涼とした雁の地がまざまざと見えた。六太は堪らず目を開ける。
そんな雁の地を初めて踏んだ尚隆は、見事に何もないな、と笑った。そして、ゆっくりと国を興していった。地に降り、民に交じり、この世の理を解きほぐしていった。ときに天の裏を掻きながら。
自ら玉座を望みながらも、尚隆は己を繋ぐ頚木を厭う。麒麟は王を選び、この世に王を縛りつける存在だ。六太はそれを重々承知していた。
陽子もまた、天の理に縛られる王だ。だからこそ、尚隆を束縛したりしない。五百年後宮を持たなかった尚隆が、己の意思で伴侶に選んだ女。尚隆と同じく、胎果の王である女。
尚隆は、天啓だ、と言った。天の理は教条的に動くと言い放つ、あの尚隆が。無論、尚隆は実際に天意を感じているわけではなかろう。六太に分かるのは、尚隆が、陽子をどうあっても手に入れたいと思い、その意志を貫き通し、今も熱愛しているということだけだ。
王として、伴侶として、尚隆と並び立つ陽子。延王尚隆の臣ではない、景王陽子。
六太は溜息をつく。
それじゃあ、おれは──?
尚隆が消えた蒼穹に向かい、六太は小さく呟く。そして、大きく肩を竦めた。
* * * 2 * * *
慶から戻った尚隆は、精力的に政務をこなしていた。己の目で確かめたわけではないが、会う官吏が皆そう言うのだから、そのとおりなのだろう。伴侶に甘えてきたからだな、と六太は密かに笑っていた。
己の仕事を片付けて暇になった六太は、尚隆の執務室を覗いてみた。尚隆は真面目に書卓に向かっていた。無造作に積まれていた書簡は大分少なくなっている。六太は小さく口笛を吹いた。
「──ずいぶん真面目に仕事してるじゃねえか」
「そんなに驚くことか?」
尚隆は手を止めることなく真顔で問う。六太はいつもの如く卓子の上に陣取って大笑いした。
「そりゃあな。天変地異の前触れかと思ったぜ」
「よく分かったな」
書面に目をやったまま、尚隆は静かにそう言った。六太は瞠目した。息が止まる。言葉を発することすらできない。舌が凍りついたような気がした。
こいつ、本気だ。
ふざけた態度で大真面目なことを言ったり、その逆のことをしてみたりと、尚隆は掴み所のない奴だ。が、永い年月を共に過ごした。尚隆の本気を六太が読み違えることはない。六太は少し震える声で問うた。
「──なんでだよ」
「答える必要があるのか?」
「ふざけてる場合かよ!」
六太は怒声を上げた。そんな六太を見返し、晴れやかな笑みを浮かべた尚隆は、ゆっくりと首を振る。
「もう思い残すことなどない。あとは、時季を待つのみだ」
「時季って何だよ!」
おれは……と思った。だが、思っただけだった。その想いを口に出す気にはなれなかった。だから六太は、絞り出すような声で、胸にある違う思いを問うた。
「それより……陽子はどうすんだ」
「陽子は、いつも言っておる。そのときは笑って見送る、と」
唇を緩め、尚隆は躊躇いなく即答した。その迷いのない顔──。
「ふざけんな!」
尚隆の胸倉を掴み、六太は再び怒声を上げる。麒麟のくせに、六太は国や民より己の想いを気にかけた。それに気づいたのか、尚隆は薄く笑って断じた。
「──もう決めた」
「全部……壊すつもりか」
六太は呆然と問うた。昔見た折山の荒が胸に蘇る。妖魔ですら飢えて死んだ、あの荒廃が。あのとき、任せろ、と力強く請け負った王が、今、国を捨てると言う。六太と共に造り上げた国を、滅ぼす、と。
「──全部、置いて逝く。最早、俺のものではないからな、何もかも」
尚隆はゆっくりと首を横に振る。そして、唇を緩めてそう答えた。力なく名を呼びながら、六太は最早言うべき言葉を失う。尚隆の胸倉を掴んでいた手が、力なく落ちた。そして、六太の目から、とうとう涙が溢れた。
お前はおれも置いて逝くつもりなのか──。
頬を伝う涙がそう叫ぶ。それでも、その悲痛な想いを口にすることはできなかった。
勝手にしやがれ。
そんな捨て科白を残し、六太は駆け去る。尚隆が六太を追うことはなかった。
何故──。
闇雲に走る六太の胸を何度も駆け巡る、その言葉。国は隆盛を極め、民は安寧を謳歌している。それなのに、国主延王は、何もかもを捨てて逝くという。
かつて六太は、王こそが国を滅ぼす者だと思っていた。尚隆はそれを否定しなかった。その上で、一国をくれた六太に一国を返す、と約した。そして、その言葉どおり、雁を豊かな国にしてくれた。王を、信じるに値するものと思わせてくれた──。
その尚隆に置いて逝かれる。
そう思っただけで、鋭い痛みが胸を何度も刺し貫く。こんな思いをするならば、失道した方がましだ。麒麟にあるまじきその想いは六太を苦しめた。
全部置いて逝く。
尚隆の言葉を反芻し、六太ははっとする。置いて逝かれるのは、六太だけではない。国も民も半身も伴侶も、全て、だ。六太は尚隆が選んだただひとりの伴侶を思い浮かべた。
(──陽子)
胸で名前を呟いて、六太は転変した。そしてそのまま海の上をひたすら駆けた。
2009.06.18.
中編「伴侶」第1回をお届けいたしました。
今年の桜祭に出そうと思っていた作品でございます。
季節外れでごめんなさい。
今年の北の国はいつまでも寒いのです。
桜の時季のほうが暖かかったような気さえいたします。
そんなわけで、頭が桜に戻ってしまったのでした。
しばらくお付き合いくださいませ。
2009.6.19. 速世未生 記