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伴 侶 (2)

* * *  3  * * *

 海に陽が沈み、月が昇る。この世で最も速い脚を誇る麒麟が、疾風の如く雲海の上を駆けていく。ただただ、半身の伴侶に会うために。

 隣国の凌雲山を目にし、六太は速度を落とす。目指す堂室の前には小さな人影があった。大きな露台に降り立つと、見上げていた陽子が肩に羽織っていた羅衫を六太に着せかけた。六太はそのまま転変し、人の姿に戻った。
「──六太くん」
 か細い声が名を呼んだ。しかし、陽子が言葉を続けることはない。ただ、何も問わずに六太を見つめる。陽子、と返し、六太もまた、それ以上何も言えずに黙りこんだ。そのまま息を詰めて見つめあう。

 陽子は、もう、尚隆の決意を知っている。

 六太は確信した。貼りつく喉から声を絞り出し、やっとの思いで問う。

「──お前は、それでいいのか?」
「いいわけ……ないよ……」

 掠れた声で即座に答え、半身の伴侶は目を逸らす。六太は涙を堪え、声を荒げて陽子に詰め寄った。

「だったら、なんで……!」
 止めなかったんだ──。

 辛うじてその言葉を呑みこむ。半身の己にできなかったことを、伴侶の陽子に求めていいはずもない。分かっていて尚、六太は目に滲む涙を感じた。
 陽子は何も言わずに激する六太を抱きしめる。六太は涙が零れぬよう我慢し、嗚咽を堪えた。そして、気づく。夜着の襟元から覗く陽子の華奢な肩に、所有印が刻まれていることに。

 神なる身に、これほど鮮やかに残るその印。どれだけの力が加えられたものか。どれほどの痛みを伴うものだったのか。残す方も、残される方も──。

「あいつ──ここに来たんだな」
 尚隆が残した刻印をなぞり、六太は溜息をつく。陽子は黙して微かに頷いた。伏せた長い睫毛が揺れていた。辛くないわけがない。止められるものならば、とっくに止めていただろう。六太は自嘲して笑った。
「──ごめん。八つ当たりだ」
 言って六太は滲んだ涙を拭う。陽子は何も言わず、切なく笑む。そして小さく首を横に振った。
 胸に尚隆の晴れやかな笑みが蘇る。尚隆は熱愛する伴侶にどんな貌でなんと末期の別れを告げたのだろう。未練がましい刻印など残して。そう思うと笑みが浮かぶ。六太は思ったままを陽子に問うた。
「──あいつ、なんて?」
「──花見に来た、と」
 陽子は躊躇いがちに応えを返す。六太は凛とした緋桜のような女王を見つめ、納得して微笑した。
「ああ……なるほど。確かに花見だな。それから?」
 己の美貌に頓着しない陽子には、意味が分からないのかもしれない。六太は、首を傾げる陽子に問いを重ねた。

「愛している、と」

 陽子は淡く笑んで応えを返す。六太は目を見張り、絶句した。この期に及んで別れの言葉もないのか。目を丸くしたまま、六太は更に問う。
「まさか、それだけなのか……?」
 陽子は唇を緩めて首を振る。美辞麗句の嵐だった、と笑い含みに応えを返し、陽子は口籠った。最後の逢瀬に別れも告げず、いったい何を考えているんだ。そう思うと言葉が出てこない。
「──呆れた奴だな。でも、あいつらしいか」
 辛うじてそう言って、六太は笑みを返す。陽子は微かに笑んだ。その、あまりにも痛々しい貌。六太は真顔で問う。
「──で、お前はどうするんだ?」
「六太くん……昔、約束したじゃないか」
 陽子は微笑する。言われて六太は思い出す。それは陽子が登極して間もない頃のこと。泰麒捜索の折、尚隆と散々やりあった挙句に交わした約束。
「ああ、そうだったな」
「あのときの借りは、きっちり返させてもらうから。だから安心していいよ」
 大笑いする六太に、景王陽子は朗らかに笑ってそう返す。六太は、逆に笑い止め、呟くように問うた。
「陽子……ほんとに、それでいいのか……?」

「もう決めたんだ」

 陽子は笑みを湛えたままきっぱりと断じる。その毅然とした表情も、決然とした口調も尚隆と同じで、六太は思わず泣きそうになった。
「──あいつと同じことを言うんだな」
「私は……あのひとに育てられたようなものだからね」
 何の衒いもなくそう言う陽子。尚隆の望むままに玉座に就き、ずっと尚隆の伴侶として生きてきた陽子。それなのに、尚隆は、この女を置いて逝くのだ──。
「けど……お前、これから、どこで泣くんだ……?」
 六太はやっとのことでそう告げた。景王陽子は決して涙を見せない。武断の女王が陽子に戻って泣く場所は、伴侶の胸だけなのに。

「涙を流す陽子はあのひとが連れて逝ってしまうから、景王である私は、もう、泣く必要もないんだよ」

 そう言って、陽子は晴れやかな笑みを見せた。こんなときにも、陽子は王で在ろうとする。

 王は、王でなくば生きられない存在。

 その重い現実に気づき、六太はもう涙を堪えることができなかった。
 陽子にしがみつき、六太は声を殺して泣いた。陽子は宥めるように六太の背を撫で続けた。

* * *  4  * * *

 愛している、と──尚隆はどんな貌で告げたのだろう。ただその一言だけで末期の決意を知らされて、陽子はどんな応えを返したのだろう。

(──もう決めた)

 薄く笑ってそう言った尚隆。揺らがない末期の決意を見せた、六太の半身。果てなき生を終わらせることを選んだ王は、穏やかな顔をしていた。思い出すと、胸に鋭い痛みが蘇る。六太は涙に濡れた顔を上げ、陽子を見つめた。
「──あいつは、全て置いて逝く、と言ったんだ。最早俺のものではないから、と……」
 震える声で陽子に告げる。半身の六太にはそう断じた尚隆は、伴侶の陽子には愛の言葉しか残さなかった。ならば、己が陽子に伝えなければ。六太は嗚咽を堪え、囁くように続けた。
「あいつは……お前も……おれも……置いて……独りで逝くんだ……」
 どんなに辛くとも、それが現実だ。延王尚隆は、国も民も伴侶も半身も全て捨てて逝ってしまうのだ。それなのに──。

「──違うよ、六太くん」

 陽子は小さく首を横に振り、揺るぎなく断じた。そして、六太を抱く腕に力を籠める。六太は瞠目し、低く問い返した。
「何が違うんだ……?」

「逝くか、残るか、決めるのは六太くんなんだよ」

 そう言って、陽子は神々しい笑みを見せた。まるで天勅を告げるかのように。六太は目を見張ったまま陽子を凝視した。
 己には置いて逝かれる現実しかないのだ、と思っていた。尚隆は勝手に末期を決意し、独りで逝ってしまうのだ、と。六太は、尚隆にも言えなかった本音を、躊躇いがちに口にした。
「おれ……あいつと逝って、いいのか……?」
「六太くんが、そう決めたのなら、それでいいんだよ」
 はっきりと言い切って、陽子は切なく笑う。六太は気づいた。陽子は、尚隆に置いて逝かれるわけではない。景王陽子は、己の意思で玉座に留まることを選んだのだ、と。

 そのときは笑って見送る。

 陽子は尚隆にいつもそう言っていたという。穏やかに告げて笑う尚隆が、浮かんで消えた。
 ずっと尚隆を受け止め、癒し、送り出してきた、細い腕。六太は今、己を抱きしめる陽子の温もりに、凝った心が解き放たれたような気がした。
「──お前、ほんとにい女だな。あいつには勿体ない」
 涙を滲ませながらも六太は笑う。胸に蘇る、数々の出来事。初めて会った時から、延王尚隆と対峙することを厭わなかった、隣国の王と定められし娘。景王陽子は己を頼る者を真摯に受け止めてきた。弱き者を助け、力戻れば手を離すことができる王。尚隆が選んだ伴侶はそういう女だ。

 景王陽子と出会わなければ、延王尚隆はもっと早くに玉座を捨てていたかもしれない──。

「今頃分かっても遅いよ」
 延王尚隆の伴侶は笑みをほころばせ、おどけて言い返す。その笑みは、潔く、美しい。景王陽子は、桜の古木のようだ。どんな嵐に見舞われても、端然とその場に立ち続ける。
「──お前は、桜だ」
 六太は想いを噛みしめるように言葉にした。花見に来た、と告げた尚隆の気持ちがよく分かる。この凛とした緋桜に別れを言う必要もなかろう。命尽きて尚、花を恋うてここに戻ってきたくなる──。
 その想いを、伝えたかった。言葉にできない様々な想いを、最期に伝えておきたい、と心から願う。六太は背伸びをし、想いを籠めて陽子の朱唇に口づけた。
「大好きだよ、陽子。おれ、お前に会えてよかった。ありがとう」
 瞠目して絶句する陽子に、六太は晴れやかな笑みを向ける。それから、纏っていた羅衫を陽子に着せ掛けると同時に再び転変し、夜空を駆け上った。

 月が海を照らす。その金波は、輝かしく美しい。そして、その下に透けて見える慶の国も美しかった。景王陽子という主を得て、この国は豊かに潤ったのだ。来る時には目に入らなかった景色を、六太は感慨深く眺めた。そして、この国を壊すことを選ばなかった景王陽子に、改めて深い感謝を捧げた。

2009.06.26.
 中編「伴侶」第2回をお送りいたしました。
 ぼさぼさしていたらいきなり暑くなってしまいました。 ますます季節外れでごめんなさい。
 次で終われると思います。 よろしくお付き合いくださいませ。

2009.06.26. 速世未生 記

背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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