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伴 侶 (最終回)

* * *  5  * * *

 月が沈み、また陽が昇る。高岫山を越えて、六太は己の国へと舞い戻った。陽光に照らされた雲海の波の下に広がる雁の国は、穏やかで美しい。
 この豊かな国が、また、荒廃に襲われる。治が乱れ、緑が消え、妖が現れ、民が飢える地となるのだ。そう思うと胸が痛む。それでも。

 もう、迷わない。もう、嘆かない。麒麟にあるまじきこの物想いを、否定はしない。それが、延麒六太の出した結論だった。

 玄英宮に戻った六太は、溜まった仕事を軽やかに片付けた。大人しく宮城に留まっているらしい国主の許に顔を出すのは止めておいた。時季が来れば、尚隆は動く。それまでは、己も真面目に仕事をしよう、と六太は決めていた。

 ある日、延王尚隆は玄英宮を発った。文句のつけようがないほど完璧に仕事を終わらせて。どんな疾しいことがあるのだろう、と首を捻る官吏たちに、六太は笑ってみせた。
「逢い引きに行くんだろ。そんな季節だからな」
 春早い頃はいつも隣国の麗しき伴侶の許へと旅立つ国主を、官吏たちはみな苦笑交じりに見送っていた。故に六太の一言を疑う者はいなかった。
 己も仕事を終わらせて、そのままふらりと玄英宮を飛び立った。王気は南にある。六太はゆっくりと主の許へと向かった。

 眼下の山野はまだ冬枯れた様子を残しつつも、春の準備を始めている。永い間、王が変わらなかったがために培われた豊かな自然であった。その中に、ひと際目立つ薄紅の樹を見つけ、六太は唇を緩める。尚隆は独りで早咲きの桜を眺めていた。
 それは、五分咲きの大きな八重桜だった。開きはじめの花は白く、開ききった花びらは緋色の、何とも珍しい、美しい桜。その花は、六太に麗しき紅の女王を思い出させた。
「見事な桜だな。──陽子みたいだ」
「お前もそう思うか」
 桜を見つめたまま、尚隆はのんびりと応えを返した。突然現れた六太に驚きもせず、振り返りもせず。六太はくすりと笑った。
「お前が、あんない女を置いて逝く気になるとは思わなかったな」
 六太は思うままにそう告げた。あれほど強く優しく美しい女はいない。熱愛する伴侶を独り置いて逝く気になったわけを訊いてみたかった。聞いた尚隆は初めて振り返り、にやりと笑って逆に問うた。

「お前なら、黄泉路に陽子あれを伴えるか?」

 六太は隣国の女王の澄んだ翠の瞳を思い出す。確かに、陽子に暗闇は似合わない。六太は苦笑して首を横に振った。
「おれには無理だ」
「そうだろう」
 軽く応えを返し、尚隆は呵々と笑う。そんな尚隆を、六太は切ない目で見つめ返した。言いたいことが胸に詰まり、巧く言葉に置き換わらない。言い淀む六太に、尚隆は翳りない笑みを向けて問うた。
「言いたいことがあるのだろう?」
「──陽子に、会ってきた」
 伴侶の名を聞くだけで、穏やかな尚隆の顔が一層和らぐ。その瞳には、ずっと抱えていた昏い闇は、見当たらない。

 こんな貌をされたら、もう、何も言えないだろう。尚隆の暗闇を受け止め続けた陽子は、きっと、何も言わなかったのだろう──。

 言葉を失って立ち尽くす六太を、尚隆は視線で促す。六太は唇を緩め、半身の伴侶の言葉を反芻し、噛みしめるように口にした。
「あいつは……お前が涙を見せる陽子を連れて逝くから、泣く必要もないんだ、と言って笑ってたぞ……」
 尚隆は、黙して瞑目した。それなのに、伴侶を呼ぶ声が聞こえたような気がした。六太はそのまま伴侶への物想いに沈む尚隆を見守る。懐かしげな、切なげな貌をした、己の半身を。

 お前は──今もその胸に伴侶を抱いているんだな。そして、お前の陽子を連れて逝くんだな。だから、敢えて別れを告げなかったのか。

 仄かに笑う尚隆を見つめ、六太は素直にそう思った。
 やがて、尚隆は目を開けた。そして、もう一度、視線で優しく六太を促す。六太は大きく息を吸った。

「──おれも逝く」

 六太は己の決意を短く告げる。尚隆は驚かなかった。ただ、唇を緩め、楽しげに応えを返した。

「道連れなどいらないぞ」
 それはお前の意思か? それとも、王を慕う麒麟の本性か? 

 憎まれ口がそんな問いかけに聞こえ、六太は思わず目を閉じる。目の前に広がるものは、惨憺たる荒廃の地。それは雁でもあり、京でもあった。国を焦土とした元凶は、どちらも、君主。

 王など選ばない。

 そう思って蓬山を出奔した遠い日。そのために蓬莱へ逃げたはずだった。それなのに、辿りついた瀬戸内で、六太は見つけてしまったのだ。己の半身を。己の主たる延王尚隆を。
 六太はゆっくりと目を開けた。静かに見つめる尚隆を見据え、もう一度大きく息を吸う。そして、おもむろに口を開いた。

「──おれは、二度と、王なんか選ばない」

* * *  6  * * *

 君主など、民を虐げるだけの存在だ。

 延麒六太はそう思っていた。

 王などいなくても民は立ちゆく。

 六太が選んだ国主は、笑みを湛えてそう言った。

 そうして、任せておけ、との言どおり、雁を豊かな美しい国にしてみせた。六太が望んだ緑の山野を返してくれた。だからこそ。

 おれの主は、お前だけ──。

 六太は己の決意を真摯に伝える。王を辞すると宣した半身は、ゆっくりと笑みを浮かべた。

「よい覚悟だな。では共に参ろう」

 飄々とそう返す尚隆に、六太もまた暗闇を払拭した笑みを送る。そして、ようやく気づいたのだ。麒麟は、玉座を降りた王に従う謂れなどないことに。

 そうか、全部置いて逝く、とは、最早俺のものではない、とはそういう意味だったのか。

 六太は新たな目で尚隆を見つめ直した。己の主が存外に律儀な男だということを思い出し、六太は唇を緩める。しかし。

 尚隆は忘れている。王は死ぬことによって麒麟を解放するが、同時に、新たな王を選ぶ、という重い使命を与えるのだ、ということを。

 六太はひとり笑いを噛み殺す。今までの鬱屈が晴れていくのを感じた。
 六太の胸中など頓着しない尚隆は、おもむろに桜を見上げる。それから、のどかな山野に目を移し、感慨深げに眺めていた。己が育んだ国土に、何を見ているのだろう。そう思いつつ、六太はただ主を眺めた。やがて尚隆は、小さな声で六太の名を呼んだ。

「宰輔を道連れに、自ら命を絶つ愚王は、何とおくりなされるだろうな」

 己が捨てる国土を眺め、延王尚隆は自嘲の笑みを浮かべる。尚隆もまた、昔見た凄まじい荒廃を思い出しているのだ。
「そんなもん、分かるわけないさ」
 らしくない問いを笑い飛ばす。かつて尚隆は、民のものを掠め取って食っている、と王の真実を述べていたというのに。そう、王とは民を搾取し、殺す者。しかし。

 この世界は王を欲している。王が斃れれば、天候は不順になり、妖魔が現れ、国は荒れる。畢竟、王はいてもいなくても民に害を為す者。

 いつの世も、市井に生きる者は、上に立つ者の思惑に振り回され、流されていく。それでもいつも、賢治を恵んでくれる王を切望しているのだ。僅かに目を見張った尚隆を見つめ、六太は明るく笑う。
「斃れた王は、憎まれて当たり前じゃねえか。でもさ、滅王でないことだけは確かだな」
「──そうだな」
 一言返し、尚隆は呵々大笑する。国はこれから荒れるだろう。しかし、延王尚隆は、国と民を蹂躙し尽くして滅ぶことはなかった。己の暗闇に、民を引きこもうとはしなかったのだ。それなのに。
「今更、そんなことを気にするのか?」
「なに、単なる好奇心だ」
 六太は首を傾げて問うた。尚隆は朗らかに答え、また緋色の桜を見上げる。美しき八重桜は、笑顔をほころばせる隣国の女王のよう。六太は感嘆の溜息をついた。

「──では、安心して景王陽子に頼るとするか」

 尚隆は笑い含みにそう言った。六太は大きく頷く。艶やかに咲く緋桜に、景王陽子の笑みが重なった。

(あのときの借りは、きっちり返させてもらうから。だから安心していいよ)

 登極したばかりの頃の恩に報いると笑った隣国の女王。六太は遥か昔の出来事を思い出していた。延王尚隆を論破してその助力を引き出した女王は、にこやかに一礼した。

(この借りは後々、必ず返させていただきます)
(いつの話だ)
(それは勿論、延王が斃れたときに。雁が騒乱に巻き込まれるときまでには慶を立て直しておくと約束します。安心して頼ってください)

 やりこめられて顔を蹙めた延王尚隆に、景王陽子は爽やかな笑みを返したのだ。そして、諦めて働け、と尚隆に止めを刺したのは、延麒六太てあった。

 陽子。ありがとう。後はよろしく。お前の半身を、大事にしてやってくれ。麒麟は王のものなのだから。

 麒麟の全ては王のためにある。王が道を失えば、病んでその身に報いを受ける。何のための生だ、と毒づいたこともあった。しかし。
 尚隆は、六太を失道の病に追いこむことはなかった。あまつさえ、己の道を選択する余地を残してくれた。

 共に逝くか、留まるか。二者択一とはいえ、己が決めたことを悔いたりしない。

 艶やかな緋桜に笑みを向け、延王尚隆は剣を抜く。延麒六太は、己も桜に笑みを送り、静かに頷いた。

 おれは幸せだ。

 それが、六太の胸を満たす最期の想いだった。

* * *    * * *

 その日、北の大国雁の白雉が落ちた。人々は、どんな王朝にも終焉が訪れる、ということを思い知ったのだった。

2009.07.03.
 中編「伴侶」最終回をお届いたしました。
 結局7月まで桜を書いてしまったことになります。 ごめんなさいね。
 六太の物想いはこんな風に昇華されました。 季節外れのお話にお付き合いくださってありがとうございました。

2009.07.03. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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