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笨 媽ほんま (1)

文・速世未生/絵・ざくろ

* * *  序  * * *

 ある早春の日、国主景王は突如金波宮を出奔した。身を守る水禺刀を帯びることなく、常に傍を離れぬ使令の班渠すらも王宮に使いとして帰し、正真正銘独りきりで──。

 こんなことは、今までなかった。胎果で常識に捉われぬ武断の女王は、よく護衛を撒いて微行を繰り返していたが、最低限の自衛手段を講じていた。即ちそれが水禺刀と使令であったのだ。
 この事態に景王が住まう金波宮は早朝から騒然とした。女王の身の回りの世話をする女御から報告を受けた冢宰は、すぐさま宰輔に目通りを求めた。そして側近たちは、唯一王の居所を知ることができる宰輔の執務室に集ったのだった。
 宰輔の許にはちょうど使令が戻り、報告を上げるところだった。珍しく姿を現した班渠は、一堂に会した側近に目をやり、頭を下げた。
 己の主に向き直った班渠の言葉を、誰もが固唾を呑んで待った。班渠は表情を変えぬ宰輔に女王の伝言を淡々と告げた。
「主上は、しばらく独りにしてほしい、と仰せになりました」
「──そうか」
 宰輔は深い溜息をつき、そのまま黙した。普段口喧しい宰輔のその反応に、誰もが由々しきことを思い浮かべる。その場は凍りつくような沈黙に包まれた。

* * *  1  * * *

 陽子──。

 胸で呟き、鈴もまた黙って俯いた。友である陽子は、この国の女王。鈴には計り知れぬ物想いを抱いている。それでも、友として、その悩みを分かちあえたなら。鈴はいつもそう思う。いったい、何があったのだろう。鈴は朝の出来事を思い返した。

「おはよう、陽子」
 いつものように声をかけ、女御鈴は国主景王の堂室に足を踏み入れる。しかし、いつも元気な応えを返す女王の姿は見えない。
「陽子?」
 もう一度声をかけても、やはり返しはなかった。鈴は慌てて臥室に駆けこみ、牀榻の扉を開いた。
 武断の女王は扉を開ける音で目を覚ます。だから、鈴は臥室まで足を踏み入れたことは滅多にない。それに、陽子には気儘に宮を訪れる伴侶がいた。それを憚り、鈴が早朝に牀榻を覗くことなど、なきに等しかった。それなのに。
 扉を開き、帳を開けた牀の中に、女王の姿はない。主を探す鈴の目に入ったものは、寝乱れた床、乱雑に脱ぎ捨てられた夜着。そして、枕許に置かれたままの、愛用の水禺刀──。
「陽子!」
 鈴は悲鳴を上げた。几帳面な陽子は、女王なのに、いつも己の手で牀を綺麗に整える。それは奚の仕事でしょうと鈴や祥瓊が笑うと、陽子は頬を染めて俯いた。陽子がたまさかに訪れる伴侶の存在を憚っているのだ、と鈴も祥瓊も分かっていて冷やかしていたのだった。
 延王が──共に暮らすことができない伴侶が訪れていたのだろう。しかし、破天荒な延王も、隣国の女王である伴侶を、無理矢理連れ出すような乱暴な真似をしたことはない。

 ならば、陽子は己の意思で行方を晦ましたのだ。

 鈴は女王の居室を出て、すぐに祥瓊を捜した。鈴の切羽詰まった顔に、祥瓊は足早に女王の臥室に足を踏み入れた。そして、蒼白になって呟いた。

「──台輔と、浩瀚さまにお伝えしなければ」

 鈴は大きく頷き、そのまま冢宰浩瀚の許に向かった。宰輔には祥瓊が伝えに走り、冢宰への伝言を持ち帰った。そうして今、班渠の言葉を皆で聞いたのだ。

「──主上のご意向は分かった。皆、仕事に戻れ。台輔、それでよろしいですか?」
 凍りついたような沈黙を、冷静な冢宰の声が破った。問われた宰輔は、ゆっくりと頷いた。
「──頃合を見て、私が迎えに参ろう」
 それを聞き、集まった側近は黙したままそれぞれの仕事に戻っていく。鈴もそれに倣い、宰輔の執務室を後にした。今、女王のためにできることは、望みどおりそっとしておくことだけ。その事実を前にし、誰も口を開かなかった。

 日が落ちて辺りが暗くなっても女王は戻らなかった。気を揉む鈴に、祥瓊がそっと囁く。
「──午後の政務を終えられてすぐに、台輔が陽子を迎えに向かわれたわ」
 それを聞いて、鈴は少しだけ安堵した。麒麟には王気が分かる。半身である宰輔には、陽子の居所が掴めているのだろう。しかし、その身の無事を確かめるまでは安心はできない。鈴は祥瓊と共に女王の居室にて主を待ち続けた。

 やがて、泣き腫らした顔を隠すように、陽子は自室に戻ってきた。待ち構えていた鈴も祥瓊も、何も言えなかった。陽子は切なく微笑する。そして、黙して見つめる鈴と祥瓊を抱きしめ、小さく囁いた。

「──心配かけて、ごめん。今朝──あのひとを……見送ったんだ……」

「陽子……」
 鈴は絶句した。それは、祥瓊も同様のようだった。あのまま姿を消したからには、よほどのことが起きたのだろう、と予想はしていた。

 けれど、まさか、その伴侶を見送ったとは──。

 今まで傍を離れたことがない班渠が女王を置いて王宮に戻ったのだ。そして、宰輔がそれを黙認し、冢宰は厳しい顔をしながらも受け入れた。それくらいに由々しきこと。

 仲睦まじい伴侶との、永遠の別離──。
挿絵1
 鈴は、黙って茶を淹れた。祥瓊は、軽い茶菓子を用意した。陽子は朝から何も口にしていないはずだった。
 食べたくないと首を振る陽子を、二人は無理矢理榻に坐らせた。そして、無言の圧力をかけて、何とか口に運ばせた。
 その後、生真面目な女王は、顔を洗って着替えたら溜まった仕事を片付ける、と言い張った。が、鈴と祥瓊は、そんな陽子に夜着を着せ、牀に押し込んだ。その顔を見たら心配しない者はいない、と鏡を突きつけながら。泣き腫らした瞼を見せつけられて苦笑し、陽子は大人しく衾を被った。
 隠形する班渠に声をかけて見張りを頼み、鈴と祥瓊は女王の居室を後にした。回廊を歩きながら二人は小声で話す。
「──白雉は落ちていないわよね」
「鳳が鳴いたとは聞いていないわ」
「これから、どうしよう?」
「宰輔と冢宰にご報告して、指示を仰ぎましょう……」

 女王を迎えに行った宰輔は、既に事情を知っていた。能面のようなその顔は、常より更に白い。そして、怜悧な冢宰も、無表情に黙したままだった。

「主上は、帰り際に……もう大丈夫、と仰った」

 宰輔は感情の籠もらない声でそう呟いた。その一言を耳にして、冢宰は深く頭を下げ、足早に退出していった。宰輔はもう口を開く気はないようだ。鈴は祥瓊と共に恭しく拱手し、宰輔の許を辞した。

 景王陽子は次の日から通常通りの生活を続けた。起こされずとも起き出し、言われずとも身支度を整え、きちんと朝食を摂った。見守る鈴の目にも、淡く透き通った美しい姿で。
 ある日、鳳が隣国の偉大な王の末声を報せても、淡い笑みを見せただけだった。そして、ただただ散り行く桜の花吹雪を浴び続けていた。
 景王陽子は、永いときを連れ添った伴侶を、涙も見せず、静かに送った。その潔く美しい様に、誰もが言葉を失った。そして、その華奢な背を、何もできずに見つめるばかりであった。

2008.04.04.
 中編「笨媽」第1回をお届けいたしました。 中編「慟哭」〜短編「桜雨」の鈴視点のサイドストーリーでございます。
 このお話は「私的十二国雑記」ざくろさんの「琶山風姨想 」を拝見したときから、 いつか書いてみたいお話でございました。 今回、ざくろさんの太っ腹なお許しをいただき、纏めてみることとなりました。 しかも、挿絵を描いていただけることになりまして……。 天にも昇る気持ちでございます。
 週1回アップ、3回連載のお話となります。 どうぞよろしくお願いいたします。

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2007.04.20. 速世未生 記
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